横浜市南部のその他の史跡/建造物スポット一覧

  • 旧伊藤博文金沢別邸
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    4.0
    22件の口コミ
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区野島町24 野島公園内
    金沢八景にある伊藤博文の別荘は、1898年(明治31)に完成。博文が首相を務めていた時期に政治家や皇族を招いていた。邸宅は3棟が連なる造りで、内部には博文の漢詩や大日本帝国憲法草案の複製が展示されている。博文暗殺後、所有は子息、日産系列会社、横浜市へと移った。2006年(平成18)に横浜市指定有形文化財となり、2009年(平成21)に創建当時の姿に復元され公開された。

    野島公園の中のメインともいうべき旧伊藤博文金沢別邸は無料で入れて、中も充実しています。 横浜市は異人館も無料のところが多いし、太っ腹ですね。 居間からの海の景色が最高です。

  • 三殿台遺跡
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    4.0
    12件の口コミ
    旅行/観光
    神奈川県横浜市磯子区岡村4-11-22
    三殿台公園バス停から徒歩で約3分、天神前からは約10分の遺跡。昭和41年(1966)に国指定の史跡となっており、敷地内に横浜市三殿台考古館が併設されている。標高約55mの平たい丘の上に250軒程の竪穴住居跡が発見され、壺や青銅製の腕輪なども発掘。縄文・弥生・古墳と各時代の復元住居や遺構を展示する住居跡保護棟が見られる。

    わが町にある唯一の遺跡は、 縄文時代から弥生時代にかけての一般庶民の状況はどうです。 私の町の小学生は、遠足と言うとまずはこの三殿台遺跡に行きます。 復元家屋が建てられていますが、正直なところ何遺跡で見ても同じに見えます。

  • 長浜ホール
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    3.5
    10件の口コミ
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区長浜114-4長浜野口記念公園内
    長浜ホールは、長浜検疫所の当時の事務所棟の外観を復元したもので、平成9年に開園した『長浜野口記念公園』内にあります。 現在はコンサート等が開かれ、市民の憩いの場になっています。

    野口英世は、世界的に有名な細菌学者で、ノーベル賞候補にもなった医学者です。 長浜ホールは音楽を中心とする多目的施設ですが、敷地内には、野口英世が明治時代に勤務していた横浜海港検疫所もあります。現在は旧細菌検査室として一般に開放されています。室内には、細菌検査の検査機器や備品類が実験台とか棚の上に展示されていました。 尚、旧細菌検査室の向かい側には長浜ホールがあり、入口には野口英世の胸像が飾られてい...

  • 姫小島水門
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区洲崎町3
    金沢地区の干拓事業をすすめてきた永島家六代目段右衛門が、金沢入江新田開発のため造ったものといわれています。 この新田開発は干潟を埋め立てて行ったため、満ち潮のとき、海水の流入をどのようにして防ぐかという問題が発生しました。 この問題を解決したのがこの水門です。 門扉が海側にのみ開閉することにより、潮が満ちれば水門が閉じ、干潮のときには開いて宮川の水が流れ出るようになっていました。 姫小島の名前は「照手姫と小栗判官」伝承によると照手姫が、この島で松葉いぶしの難に遭ったと云うことで、この土地の人が哀れみ「姫小島」と呼ぶようになったそうです。 完成:天明5年(1785)復元:平成5年(1993)
  • 鼻欠地蔵
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区大道1-74付近
    金沢区に残っている、二つの磨崖仏(まがいぶつ)の一つです。 昔、朝比奈町は相模国鎌倉郡に属し、峠村と呼ばれていました。 ここは鎌倉と金沢を結ぶ大切な街道で、この地蔵の東わずか2メートルの所が、武蔵の国との国界(くにざかい)でした。 これから西は相州、東は武州で相武の境にあたるので、「界の地蔵」、また鼻が欠けているところから「鼻欠地蔵」とも呼ばれていました。 この地蔵から北へ行く道があり、釜利谷に出て能見堂に登る道と、本郷の入り口で大船の方にも抜けられる岐れ道もある交通の要所でした。 今は風化が進み、地蔵の顔や姿は説明されないとわからない程になってしまいました。
  • 能見堂跡
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区金沢町222付近
    能見堂は、寛文年間(1661-73)に、当時の領主久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)が、芝増上寺の子院を移設し、地蔵菩薩を本尊として再興した擲筆山(てきひつざん)地蔵院のことです。 明からの渡来層、心越禅師(しんえつぜんじ)が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヶ所の勝景を漢詩に詠んだことで、『金沢八景』の場所と名称が定まりました。 歌川(安藤)広重らが、これを題材に浮世絵を描いたことによって、能見堂は広く知られるようになりました。 現在、能見堂跡には享和三年(1803)に、江戸の庶民百数十人によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑が残っています。 これは江戸・保土ヶ谷・金沢・鎌倉・江ノ島の観光ルートの証でしょう。 現在では梅の名所のひとつです。
  • 旧川合玉堂邸(二松庵)
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区富岡東5-19-22
    ※2013年10月16日早朝、全焼する火災が発生したため、一般公開は、しばらくの間休止しております。 日本画の大家・川合玉堂の富岡の別荘です。 約2000坪の回遊式庭園をもち、その庭に古い黒松が2本あったために二松庵と名づけられました。 この別邸は数寄屋造りで画室としての機能を備え、玉堂により大正6年ごろに新築されたもので、造園は地元の庭師「植周」が玉堂の意向を生かして作庭しました。 玉堂は昭和10年ごろまで毎年、夏冬をここで過ごし、多くの作品を描きました。 平成7年に母屋及び表門が横浜市の有形文化財に指定され、その後、平成17年1月に横浜市所有となり、現在、毎月第一土曜日に一般公開されています。
  • 御伊勢山・権現山
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区瀬戸20,21付近
    京急金沢八景駅西側の茅葺きの建物はもと円通寺の客殿でした。 その裏山に東照宮が祀られていて、円通寺はその別当職でした。 明治時代の初めに円通寺は廃寺となり、東照宮は瀬戸神社に合祀されました。 御伊勢山はかつて伊勢神宮が祀られていたところからこう呼ばれるようになりました。 権現山とその西の御伊勢山の樹叢林は、横浜市の天然記念物に指定されていて、秋の紅葉は見事です。
  • 直木三十五の文学碑
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区富岡東4-1-1付近
    大正の末から昭和の初めにかけ活躍した大衆作家の直木三十五の富岡の旧宅(跡)の門前に、昭和35年に横浜ペンクラブにより建てられた文学碑(「芸術は短く貧乏は長し」)があります。 彼の墓は現在、長昌寺にあり、命日の2月24日前後の休日に、代表作「南国太平記」にちなんで「南国忌(なんごくき)」の名称で、彼の供養と直木賞作家等の講演会が毎年開催されています。 なお、直木賞は大衆文学における彼の先駆的功績を記念して、親交のあった菊池寛により昭和10年創設され、現在、毎年春秋の二期、新進、中堅の作家に授与されています。
  • 上行寺東遺跡
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区六浦2丁目2-12
    上行寺の東側の山一帯は引越(ひっこし)の地名で呼ばれています。 昭和59年秋、ここから中世のやぐらの大群集が発見されました。 引越のやぐら群とも呼ばれています。 高さ30メートルの丘陵に上段、中段の二つの平場と下部崖面から構成されていて、43のやぐら、6基の建物跡、400ヶの五輪塔、200体にのぼる人骨が出土しました。 やぐらは主に鎌倉時代に使われ、室町時代まで墓地として利用されていたことがうかがえます。 念仏堂と思われる建物や、池と一体となったやぐら群は類例のないものです。 やぐらの岸壁に刻みだされた阿弥陀如来の背後は西方を向いていて、彼岸の日に来迎を拝む意味があったと思われます。 現在の遺跡は復元したものです。
  • 小泉又次郎誕生地碑
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区大道2-6
    昭和30年代まで、小泉純一郎元首相の祖父小泉又次郎氏の生家がありました。 この碑は、養子で純一郎氏の実父純也氏によって立てられました。 又次郎氏は、慶応元年(1865)この地に誕生しました。 幼時より学業優秀、長じて軍人を志しましたが、事情により横須賀で家業の口入れ業を継ぐことになりました。 軍人を断念するため、背中いっぱいに龍の刺青をしました。 その後家業を弟に譲ると、政界に身を投ずることになります。 立憲改進党に入党、市議、県議を経て、明治41年衆議院議員に初当選、43歳でした。 民権の拡張につとめ、普通選挙運動を推進、逓信大臣を二度つとめ、刺青大臣の名を馳せました。 戦後公職追放となりましたが、昭和26年解除後、その祝賀会の3日前に亡くなりました。 86歳でした。
  • アメリカン・アンカレッジ記念碑
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区八景島
    1853年ペリー提督が大統領の国書を渡すために、4艘の艦隊を率いて来航しましたが、この時小柴沖に錨を下ろしました。 この場所は風景も美しく、ペリーは大変気に入って「アメリカン・アンカレッジ」と命名しました。 翌年ペリーは再び来航しましたが、この時も小柴沖のアメリカン・アンカレッジに停泊しています。 この時に横浜村(現関内)で日米和親条約を締結しました。 1858年に日米修好通商条約が締結されたのもこの場所です。 この記念碑は、平成22年2月金沢区制60周年・横浜開港150周年記念事業として、小柴沖を望む八景島に設置されました。
  • 明治憲法草創の碑
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区洲崎町7-24付近
    江戸時代、金沢八景が観光名所として栄えていた頃、瀬戸橋近くには旅館や料亭が立ち並び賑わいをみせていました。 その中の一つが東屋でした。 明治20年(1887)、伊藤博文を中心に、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4名が、この東屋で明治憲法の草案づくりをしていました。 ある日、その草案原稿の入った鞄の盗難事件が起こり、それを機会に、その後は夏島にある伊藤博文の別荘で草案づくりは続けられました。 昭和10年、金子堅太郎により東屋の庭に「憲法草創の碑」が建てられましたが、昭和30年東屋の廃業により、一時野島に移され「歴史の道」整備の折、現在の三叉路ロータリーに設置されました。
  • 三艘会館文殊堂
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区六浦南1-35-13
    三艘会館文殊堂(さんぞうかいかんもんじゅどう)三艘町内会館に文殊菩薩像が安置されています。 これは戦国時代に小田原北条氏の家臣で玉縄城を守る「玉縄18人衆」と称される朝倉能登守景高(あさくらのとのかみかげたか)の持仏でした。 景高は三浦衣笠の荘のうち、浦郷村を拝領した領主です。 景高は夫人が熱心な浄土宗の信者だった為、曹洞宗であった寺を阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の良心寺として追浜に創建しました。 この時、三艘に住んでいた檀家総代の大川段右衛門が、文殊堂を建立し菩薩像をお移ししました。 文殊堂は現存していませんが、菩薩像は三艘町内会館に保存され、今でも近所の人たちにより大事にお祀りされています。
  • 瀬戸橋
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区瀬戸
    セトとは狭い門「ト」を意味する古い言葉です。 江戸時代中期までは瀬戸橋より北側の文庫駅や手子神社あたりまで内海が広がっていました。 瀬戸橋のあたりの狭くなった所は潮の流れが速く、小舟で渡るのも難儀でした。 鎌倉幕府は六浦の港を重視し、臨時の税金を徴収して瀬戸に橋をかけました。 そのお陰で、町屋・寺前などが発展しました。 広重の江戸名所図絵には、瀬戸橋のあたりの賑わいが描かれています。
  • 白山道奥磨崖仏
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区釜利谷南2-44付近
    白山道奥磨崖仏(はくさんどうおくまがいぶつ)白山道の右側奥の崖の中腹に、よく見ると大きな仏像の顔が掘り込まれています。 このように岩面や洞窟内の壁面に仏像を刻みつけたものを磨崖仏と呼んでいます。 ここにある磨崖仏は、永い間に風化し、僅かに岩肌に顔の部分だけが、約4m程、それとわかる輪郭でしか残されていません。 この磨崖仏の造られた年代や由来はわかりませんが、東光禅師との関連で、薬師如来の尊像を刻したものと考えられています。 六浦の大道にも鼻欠地蔵と呼ばれる磨崖仏がありますが、横浜市には、この磨崖仏と合わせて二つしかありません。
  • 厄神様
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区六浦南1-6
    厄神様(やくじんさま)戦国時代、上総・下総の豪族、里見義弘が、上杉謙信と合同で、小田原の北条氏を攻めました。 ところが里見勢が勝ち祝いにふけっている隙に北条軍が反撃してきて、逃げ遅れた里見軍の武将が六浦のこの地まで来て、人馬ともに力尽きて倒れ、「私を厄神のお社に祀ってくれるなら、この土地の守り神になってやろう」という頼みを聞いて、村人たちが櫓を掘り、祠を作ってあげました。 その後、六浦に悪い病気が流行した時に、三艘村(さんぞうむら)だけは悪疫から免れたので、厄除けの神様「厄神様」として村人の信仰を集め、毎年お祀りされています。
  • 谷津庚申塔
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区谷津町228付近
    谷津庚申塔(やつこうしんとう)谷津にある庚申塔は三基あり、向かって、左端に天明9年(1789)の青面金剛文字塔・中間に貞亨(じょうきょう)4年(1687)の青面金剛立像塔(しょうめんこんごうりゅうぞうとう)・右端に享保10年(1725)の青面金剛立像塔があります。 青面金剛は、庚申の日に祀られる夜叉神で、帝釈天の使者として病の治癒を祈る仏とされています。 庚申(こうしん)とは、60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日のことです。 庚申信仰は、無病息災、不老長生を念じる信仰ですが、当時庶民の命を縮めたのは、疫病と飢饉でした。 村人は、村に災いが入ってこないように、村境や辻に庚申塔を建て、庚申の日に集まって一夜を眠らずに過ごし、祈願していました。
  • 夕照橋
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区野島町
    室ノ木と野島は、長年渡し船で行き来していました。 追浜に海軍の飛行場が造られた関係で、平潟湾の出入口として地続きだった洲崎と野島の間に運河を掘り、野島は再び島になりました。 渡し船が廃止された昭和19年に橋が架けられ、はじめ徴用橋(ちょうようばし)、のちに八紘橋(はっこうばし)と名づけられました。 戦後の27年に3代目の夕照橋、60年に4代目として現在の夕照橋が架けられました。 夕照橋のたもとに昔の燈明台を模した橋のデザイン賞受賞の説明板があります。 なお、金沢八景を画いた初代歌川広重の「野島夕照」は「のじまのせきしょう」と読みます。
  • 旧円通寺客殿
    旅行/観光
    神奈川県横浜市金沢区瀬戸20-3 金沢八景権現山公園内
    金沢の代官である八木次郎右衛門によって、万治年間(1658-1661)に東照宮が創建され、同じころ東照宮を管理する別当寺として円通寺も建てられたと推定されています。その後、江戸時代後期の1802年に東照宮を詣でる人をもてなすため、境内に円通寺客殿が建築されました。 慶応4(1868)年、神仏分離令により円通寺が廃寺となってからは、円通寺の最後の僧侶であった木村芳臣氏が還俗(げんぞく・一度出家した者がもとの俗人に戻ること)し、客殿を住居として使用しました。 その後も木村家に住み継がれ、平成9(1997)年に「旧円通寺客殿(木村家住宅主屋)」として横浜市認定歴史的建造物に認定され、平成28(2016)年に特定景観形成歴史的建造物に指定されました。 草創当時より、大きな間取り変更や増築はほとんど行われず、江戸時代の客殿としての造りが保存されている貴重な建物です。平成31(2019)年から復元工事が行われ、令和4(2022)年4月1日に金沢八景権現山公園の開園と同時に、一般公開されました。 京急「金沢八景駅」の駅前に位置する風致公園で、東照宮とその別当寺であった円通寺の境内の跡地に整備されました。 ・・・詳細: 瀬戸神社には、鎌倉時代から伝わる多数の文化財が保存されています。なかでも源実朝が使用し、母の北条政子が奉納したといわれる舞楽面二面(抜頭面と陵王面)が平成12年、国の重要文化財に指定されたことが特筆されます。 境内には、東照宮から移設された石灯篭一対、謡曲「放下僧」の仇討ちの現場が当神社の境内であったとの解説板、延宝8年(1680)の大暴風で倒れた蛇柏槙(じゃびゃくしん)などがあります。 ・・・詳細:

神奈川の主要エリア

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険しい山から風光明媚な海までも有している神奈川県は、東京からは近く、新大阪や名古屋からも新幹線で約1時間15分~2時間でアクセスできます。 神奈川県には、さまざまな観光スポットがあります。鎌倉市は鎌倉時代に栄えた歴史ある神社仏閣が魅力の町で、国の名勝も数多くありますので歴史的な建築物を楽しめます。また、海に浮かぶ島「江の島」やのんびりした雰囲気の逗子海岸など、海も魅力の一つです。また、県の西には温泉地の箱根湯本があり、大涌谷や芦ノ湖など、山の自然も堪能できます。 このように地域によってさまざまな魅力がありますが、グルメでもエリアによって固有のものが存在します。江の島では生しらす丼、三崎港ではまぐろ料理、横須賀ではネイビーバーガーなど、観光エリアによってさまざまなご当地グルメを楽しめます。

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