木屋町通

通り

幕末の志士ゆかりの史跡が点在、高瀬川とともに歴史を刻んだ道

北は二条通から南は七条通に至る高瀬川東畔の通り。江戸時代になると、高瀬川が京と大坂を結ぶ水運の幹線として利用されたことから周辺には各藩の藩邸が立ち並び、幕末には勤王の志士たちが潜居したという。

明治時代には路面電車が走る道として賑わった木屋町通 明治時代には路面電車が走る道として賑わった木屋町通

若者たちで賑わう京都屈指の繁華街

木屋町通は、高瀬川の東側にあり、北は二条通から南は七条通まで続く南北の通りだ。全長は約2.8km、東側には花街・先斗町(ぽんとちょう)がある先斗町通があり、小道を使えば2つの道を行き来することができる。三条通から四条通にかけては飲食店が多く立ち並び、夜には繁華街として若者たちでおおいに賑わう。木屋町通へのアクセスは、河原町二条の交差点から二条通を東へ進むと北の起点、あるいは京阪電車京阪本線の七条駅から鴨川に架かる七条大橋を渡り、高瀬川まで直進すれば南の起点に行くことができる。

木屋町通に沿って植え込まれた桜や柳の木々が美しい 木屋町通に沿って植え込まれた桜や柳の木々が美しい

高瀬川の開削によって誕生した道

京都の通りの多くは、平安京の大路小路に由来することが多い。しかし木屋町通の歴史はそれとは異なり、誕生したのは江戸時代だ。1611年(慶長16)から1614年(慶長19)頃にかけて、豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)と素庵(そあん)父子によって高瀬川が開削された。二条から鴨川の水を引き伏見まで通じたこの運河の開通によって、「高瀬舟」と呼ばれる舟の運航が可能となり、大坂・伏見から京都中心部への物資運搬が活発となった。高瀬舟は江戸時代初期から大正時代まで運航され、京都の大動脈として、諸国から穀物・薪・材木・炭などを運び込んだ。木屋町通はそんな高瀬川の東岸に造営された道である。

江戸時代には約7mの川幅を誇ったという高瀬川 江戸時代には約7mの川幅を誇ったという高瀬川

材木問屋が軒を連ねたことが名前の由来

通りができた当初は、道幅約1mという狭小な道であったが、のちに道沿いに材木屋をはじめとする「木」に関係する問屋が立ち並んだことが「木屋町通」の名前の由来といわれている。通り沿いに現在も残る「材木町」や「樵木町」といった町名からも「木へん」の町であったことがわかるだろう。舟の荷物を上げ下ろしする船溜所のことを「舟入(ふないり)」といい、数か所の舟入が設けられたが、唯一当時の姿を留めているのが、木屋町通の北の起点(二条通)に近い場所に設けられた「一之舟入(いちのふないり)」だ。国の史跡に指定され、復元された高瀬舟を見ることができる。

高瀬川で遊ぶカモ。近隣の住民の協力のもと美観が維持されている 高瀬川で遊ぶカモ。近隣の住民の協力のもと美観が維持されている

幕末の志士たちが駆け抜けた地

高瀬舟は物資のみならず、旅人の移動にも重宝された。江戸時代における京都の水運の要であったことから、幕末には高瀬川に沿って長州藩や加賀藩、土佐藩などの諸藩が京都藩邸を構えるなど、木屋町通界わいは上洛した全国の人びとが行き交う町として賑わった。また藩士や浪士たちにとっては格好の潜伏先となったことから、木屋町通を歩くと佐久間象山(さくましょうざん)、武市瑞山(たけちずいざん)、吉村寅太郎(よしむらとらたろう)らの寓居跡を示す石碑を見ることができる。また新選組ゆかりの池田屋跡、坂本龍馬が遭難した近江屋跡もほど近い。日本の未来を案じて奔走した志士たちに思いを馳せて巡ってみよう。

土佐藩邸跡を示す石碑。現在はホテルとなっている 土佐藩邸跡を示す石碑。現在はホテルとなっている

スポット詳細

住所
京都府京都市中京区

情報提供: ナビタイムジャパン

このスポットを紹介している記事

アクセス

最寄り

          周辺の駅はありません。 周辺のバス停はありません。 周辺の駐車場はありません。 周辺のインターチェンジはありません。

          市内中心部エリアのおすすめスポット

          京都のその他のエリア

          + -
          back
          open

          周辺のスポット

          このスポットを共有

          back

          クリップボードにコピーしました