平時忠卿及び其の一族の墳
大納言から流刑の身に。「盛者必衰」を物語る史跡
山あいにひっそりと並ぶ五輪塔
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」。有名な平家物語のこの一節をなぞるような生涯を送った人物がいる。平清盛の妻・時子の弟にあたる平時忠である。非蔵人(天皇の秘書見習い)から正二位権大納言まで昇進して権勢をふるい、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したことでも知られる。その墓が珠洲市の北側、人里から離れた峠の途中にあるというので、足を運んでみた。北鉄奥能登バス大谷線「則貞(のりさだ)」で下車し、近くにある案内板に従って3分ほど山中の階段を降りた。先に高さ1m未満の十数基の五輪塔がひっそりと立っているのが見える。平時忠とその一族の墓とされており、最も高い五輪塔が時忠のものだ。
流刑の末、晩年を過ごし、生涯を閉じた場所
栄華を極めた平家の墓が都から遠く離れた地につくられたのは、歴史の転換点と深く関わっている。1185年(文治元)の壇ノ浦の戦いで源氏によって平家が滅ぼされ、文官であった時忠は捕虜となり、能登へと流された。このとき、たどり着いた時忠が平家の守り神であるカラスに導かれ、川をさかのぼり上流の静かな場所に居を構えたのが、大谷町則貞である。そして、時忠は1189年(文治5)にこの地で波乱万丈の生涯を閉じたとされている(1204年という説もあり)。その後、子の時康から続く則貞家がこの地で歴史を刻んでおり、代々の当主が時忠とともに眠っている。
歌碑は俳人・山口誓子が揮毫
時忠は能登に流されてからも数々の歌を残している。五輪塔の近くには、波が打ち寄せる岩間に生える松をわが身にたとえた「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえて松の幾世経ぬらん」の歌碑が建てられている。揮毫(きごう)したのは、昭和初期に活躍した俳人・山口誓子である。山口の祖父は時忠の末裔とされる珠洲市若山町・脇田家出身で、1961年(昭和36)に市内を訪れた際に筆を取ったという。
義経との関係伝えるスポットも点在
時忠は、実は源平合戦を駆け抜けた源義経との関係も深い。時忠の娘・蕨姫(わらびひめ)は義経に嫁いでおり、2人は義理の親子の関係だった。そのため、兄・源頼朝と対立した義経が奥州へと逃れる際、流刑先の義父を訪ねたとされている。珠洲市内には、義経が奉納したとされる須須神社の「蝉折れの笛」をはじめ、時の英雄に関する伝説が数多く残っている。また、時忠の子・時国は町野庄(現在の輪島市町野町)に移り、以降、時国家は海運や製塩まで手がける豪農として繁栄した。現在、その子孫にあたる上時国家と時國家の屋敷がともに国の重要文化財となっており、往時の栄華を今に伝えている。源平から続く歴史のロマンを訪ねるのも、奥能登を巡る楽しみのひとつだろう。
スポット詳細
情報提供: ナビタイムジャパン