旧吉田茂邸

資料/郷土/展示/文学館

戦後の日本を導いた吉田茂元首相が暮らした邸宅を再現

火災を受けて全焼した吉田茂元首相の母屋は再建工事を経て、2017年(平成29)から一般公開された。焼失を免れた当時の面影を残す兜門やサンルーム、七賢堂は国の有形文化財に登録されている。

ゆるやかな坂の上に立つ邸宅内の観覧料は一般510円、中・高校生210円} ゆるやかな坂の上に立つ邸宅内の観覧料は一般510円、中・高校生210円

近代数寄屋建築の第一人者、吉田五十八設計による本邸

県立大磯城山公園は国道1号線を挟んで南側を旧吉田茂邸地区、北側を旧三井別邸地区、と分けて整備された。旧吉田茂邸はもともと1887年(明治20)頃に養父健三が建てた別荘。のちに1945年(昭和20)から吉田茂が本邸として暮らした。大磯の邸宅を、海外の賓客を迎える迎賓館にしようとした吉田は屋内を改築するにあたって、当時近代数寄屋建築で名を馳せた吉田五十八を徴し、直線的なアール・デコ風の外観や近代的な素材を用いてしつらえ、部屋の中を広く見せるために柱を隠す工夫など、新しい手法を随所に取り入れて贅を尽くした邸宅を造り上げた。吉田茂の死後、2009年(平成21)には火災により母屋の大部分を焼失してしまうが、大磯町が中心となり神奈川県の協力のもと、おもに焼失前の昭和20年代に建てられた応接棟と30年代に建築家・吉田五十八が設計した新館の形に再建。現在、大磯町郷土資料館別館として大磯を代表する見どころのひとつとなっている。

1階、応接間である「楓の間」。吉田茂の執務机が置かれていた。ソファの奥には2階に続く階段} 1階、応接間である「楓の間」。吉田茂の執務机が置かれていた。ソファの奥には2階に続く階段

アール・デコの要素を取り入れた1階の食堂「ローズルーム」。音響を考えた壁材は現在は合皮だが、復元前は仔羊のなめし皮が使われた} アール・デコの要素を取り入れた1階の食堂「ローズルーム」。音響を考えた壁材は現在は合皮だが、復元前は仔羊のなめし皮が使われた

吉田茂のこだわりが詰まった邸宅

復元されたばかりの邸宅はまだぴかぴかと新しく、正直、歴史を感じられるものではなかったが、逆に意匠を焼失前に可能な限り近づけたと聞いて、邸宅の空気感やにおいは当時、吉田茂自身が改築したてに感じたものと同様の体験ができているのではないか、と感慨深い気持ちにさせられた。私的な書斎にあるダイヤルのない官邸直通の黒電話から誰が何を伝えてきたのだろうと思い、総檜の風呂場にある浴槽はどうして船大工に依頼してまでこだわりの船形にしたのだろう……などと考え、当時の政治家にでもなったようにあれこれ想像をめぐらせた。新館2階には賓客をもてなす広々とした「金の間」や吉田茂が最期を迎えた寝室兼書斎「銀の間」があり、どちらも窓の外には相模湾、箱根の山々、富士山まで見渡せる。そのほか邸宅内には吉田茂の足跡を綴った展示や映像もあり、意匠などもていねいに見ていると時間があっという間に過ぎていった。

左上下/応接間棟2階、書斎と浴室 右/新館2階、「金の間」} 左上下/応接間棟2階、書斎と浴室 右/新館2階、「金の間」

吉田茂が毎日散歩していた庭園

邸宅を見てまわったあと、庭に出る。実は邸宅に入らず、庭園を見るだけなら観覧料はかからない。旧吉田茂邸の入り口の兜門は1951年(昭和26)、サンフランシスコ講和条約を記念して建てられたもので、別名を講和条約門という。この兜門を抜けてすぐ、邸宅の正面は、心字池を中心に池泉回遊式の日本庭園になっていて、四季折々に草花の咲く風光明媚な風景が広がる。これは財界人の邸宅の庭園を多く手がけた造園家・中島健が数寄屋造りの本邸との調和を考え、設計したもの。また草花に愛情を注いでいた吉田茂はとりわけバラを好み、ちょうど日本庭園を造った同時期の1961年(昭和36)頃に兜門脇にバラ園を造園している。当時は1000を数えるバラが咲き誇る広い敷地だったが、吉田茂の死後、カーター大統領と大平首相の会談が旧吉田邸で執り行われ、このときバラ園は縮小された。生前、吉田は日本庭園やバラ園、また愛犬とともに園庭内の竹林や海沿い近くの松林までの散歩を日課とするほどに自邸の庭を愛していた。

兜門の屋根には伝統的工法、檜皮葺き(ひわだぶき)が用いられている} 兜門の屋根には伝統的工法、檜皮葺き(ひわだぶき)が用いられている

左/心字池 右/バラ園内に咲く吉田茂が愛した大輪のバラ、マリアカラス} 左/心字池 右/バラ園内に咲く吉田茂が愛した大輪のバラ、マリアカラス

近現代の政治史に残る重鎮を祀る「七賢堂」と吉田茂の像

心字池から松林のほうへ歩いて行くと「七賢堂」がある。このお堂は旧吉田邸のなかでも火災を逃れた貴重な建築物のひとつ。もともと伊藤博文初代首相が「四賢堂」として大磯の自宅・「滄浪閣(そうろうかく)」に建てたもので、明治維新に活躍した岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允を祀っていた。伊藤博文の死後、伊藤自身も合祀され「五賢堂」となり、1960年(昭和35)には吉田茂によって吉田の自邸に移された。のちに西園寺公望、吉田茂も合祀され「七賢堂」となり、今では多くの人が近現代史のオールスターをしのぶ観光スポットになっている。旧吉田茂邸の最後の見どころは、七賢堂の先にある眼下に海を望む小高い丘に立つ吉田茂像。富士山を背に、顔は1951年(昭和26)に締結された日米講和条約の地、サンフランシスコのほうを向いた威風堂々としたたたずまいのブロンズ像だ。実は西湘バイパスの車の中からもこの吉田茂の像を見ることができるので、箱根帰りにこの道を通ることがあればぜひまたチェックしてみたい。

扁額にある「七賢堂」の文字は佐藤栄作元首相が書いたもの} 扁額にある「七賢堂」の文字は佐藤栄作元首相が書いたもの

七賢堂の先に立つ吉田茂の銅像は1983年(昭和58)建立。銅像の脇に相模湾が広がる} 七賢堂の先に立つ吉田茂の銅像は1983年(昭和58)建立。銅像の脇に相模湾が広がる

スポット詳細

住所
神奈川県中郡大磯町西小磯418 map map 地図
エリア
湘南エリア
電話番号
0463614777
時間
9:00-16:30(入館は16:00まで)
休業日
月(月が祝休日にあたる場合は開館、翌日休館)、12/29-1/4、毎月1日
料金
【観覧料】
[一般]510円
[高校生]210円
[中学生]210円
[団体料金(20名以上)]一般460円、中・高校生160円

情報提供: ナビタイムジャパン

アクセス

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最寄り

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