日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設
明治の近代化に貢献した、日本初の機械式レンガ工場跡
明治から大正にかけて東京の街を彩ったレンガ建築
1886年(明治19)、東京をパリやベルリンに匹敵する華麗な首都にする都市計画が立案された。西洋風の街造りにはレンガが欠かせないため、政府は実業界の重鎮であった渋沢栄一に、民間によるレンガの大量生産工場の新設を依頼。渋沢は、江戸時代から瓦作りが盛んだった故郷、血洗島(ちあらいじま)を含む利根川の低地域を候補地として発案した。ドイツから招いたレンガ製造技師チーゼが一帯を調査した結果、レンガ製造に適した粘土質の土が取れ、かつ利根川舟運を利用して東京へレンガの移送もしやすいことから、上敷免村(じょうしきめんむら)に日本煉瓦製造株式会社を設立することを決定。最新式のホフマン輪窯を完成させて1888年(明治21)に操業を開始した。現在も残る、東京駅丸の内駅舎・法務省旧本館・旧東宮御所(現在の迎賓館)の赤レンガはここで製造されたものだ。
1902年(明治35)の『煉瓦要説』の刊行に寄せた渋沢栄一の書翰(コピー)
約120年間続いた会社の歴史をたどる
県道沿いの広々とした土地に建つ「煉瓦史料館(旧事務所)」は、もともと1887年(明治20)にチーゼ技師の自宅兼事務所として建てられた木造平屋家屋だった。当時、土地の人からは「教師館」や「異人館」などと呼ばれていたという。エントランス左側の第1展示室では、日本煉瓦製造株式会社が設立されて以来の歴史が資料や年表で説明され、日本の近代化の一端を垣間見られる。
部屋の中央に置かれているのは、レンガ業界最盛期の1907年(明治40)頃の工場全景のジオラマ。巨大な6つの窯を中心にして、敷地内に保育園から墓地まで擁していた大規模な工場であったことがわかる。県道の様子は現在と同じだが、事務所の建物は移転しており、ジオラマ上の位置と現在の位置は異なっている。
現在も工場跡に残る貴重なホフマン輪窯
第2展示室には、工場で焼かれたレンガや、製造道具などが陳列されている。史料館は建設当初、北側に幅3mのベランダが設けられていたが、その後改築され現在は外廊になっている。窓の外に見える小さな赤レンガ製の建物は旧変電室。1906年(明治39)頃、工場の動力の電化にともなって建てられたものだ。電化は深谷に電灯が導入されるよりも1年早かったといい、往事のレンガ業界の隆盛を伝えている。かつてあった6つの輪窯のなかで唯一現存する6号窯は、ホフマン輪窯としては日本全国で4か所しか残っていない貴重なものだ(2022年現在、保存修理工事のため閉鎖されており、見学の再開は2024年頃の予定)。
第2展示室ではレンガ作りに使われたさまざまな道具を見学できる
ここで製造されたレンガには「上敷免製」「日煉」「日本」の刻印が付けられている
日本で最初の専用鉄道跡と今も残る鉄橋
製造されたレンガは当初、利根川の舟運によって東京へ運ばれていたが、より安定した大量輸送を可能にするため、1895年(明治28)に深谷駅から工場までの約4.2kmに日本初の専用鉄道が敷設された。工場北側に設けられた「備前渠鉄橋(びぜんきょてっきょう)」は全長15.7m。基礎のレンガはもちろん日本煉瓦製造株式会社製で、イギリス式の積み方をしている。鉄道の運行は最盛期には1日3往復あったが、建築方法の主流がレンガからコンクリートへと替わり、レンガ事業が縮小するとともに廃線となった。跡地は深谷市に寄付され、現在は深谷駅から旧煉瓦製造施設まで歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」として近隣の人たちに利用されている。
スポット詳細
情報提供: ナビタイムジャパン