旧渋沢邸「中の家」
渋沢栄一が生まれ、青年期まで過ごした土地を訪ねる
門の前には「青淵翁(せいえんおう)誕生之地」と刻まれた石碑が建っている
渋沢栄一の生誕地に今も残る旧家
旧渋沢邸は、深谷市血洗島(ちあらいじま)を流れる清水川のほとりに建つ。1840年(天保11)に渋沢家の後継ぎとして生まれ成長した栄一は、23歳で出郷するまでをここで過ごした。この家は、渋沢一族の位置関係から、通称を中の家(なかんち)と呼ばれた。現在の主屋は家を継いだ妹夫婦が1895年(明治28)に建て替えたものだが、後年の栄一はたびたび東京から帰郷し、この家に滞在している。栄一が立ち寄った家屋は現存するものが少ないため貴重な存在だ。血洗島という恐ろしげな地名は、人から尋ねられた栄一が「赤城の神が日光の神と戦ったときに片腕をひしがれて、その傷口をこの地で洗った」という言い伝えを披露しているが、正確な由来はわかっていない。利根川の水が氾濫したことを「地を洗った」という説もある。
北関東の典型的な養蚕農家の趣を残す屋敷
堂々たるケヤキの一枚板の正門をくぐると、正面に主屋が見える。この辺りの典型的な近代養蚕家屋で、1階が住居、2階は養蚕施設になっており、屋根には寒暖差を嫌うカイコのために換気用の越屋根(天窓)が付けられている。旧渋沢邸から北西へ約3kmの距離にある、「絹産業遺産群」として世界遺産に登録されている「田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)」とほとんど同じ造りの建物だ。
農家だった渋沢家は、この家で養蚕や藍玉の製造などを行っていた
屋敷に上がることはできないので、縁側沿いに歩きながら中を見学しよう。最奥の十畳の部屋は、家を継いだ妹夫婦が特に栄一を迎えるために造らせた上座敷で、静かに滞在できるようにと2階部分がない。奥に和服を着た栄一のアンドロイドが座り、くつろいでいる姿が再現されている。(2022年は建物の耐震改修工事のため休館予定あり)
80歳頃の「栄一翁」を再現したアンドロイドは、本物かと思うくらい精巧な造り
若くして亡くなった渋沢平九郎の追懐碑
"裏庭には、""幕末のイケメン""と評判が高い渋沢平九郎(しぶさわへいくろう)を追悼した石碑が建っている。平九郎は栄一の義弟で、栄一が渡欧する際に養子となったが、戊辰戦争で官軍と戦い、22歳で自刃した。追懐碑は平九郎没後50年に建立され、東京谷中の渋沢家墓所内にあったが、2014年(平成26)にこの場所に移設された。"
平九郎の追懐碑(写真右)の左側には、栄一の両親の招魂碑が建っている
裏門から外へ出ると、青淵(せいえん)公園が広がり、栄一の雅号「青淵」の由来となった淵があった場所に記念碑が建つ。東へ約900m離れた「渋沢栄一記念館」まで遊歩道が続いており、清水川に沿った桜並木が見事だ。
栄一ゆかりの神社と深谷のソウルフード
旧渋沢邸をひととおり見終えたら、南へ徒歩5分ほどの諏訪神社へも足を運んでみよう。血洗島の鎮守の神さまで、少年時代の栄一は神社の祭りに奉納される獅子舞を踊ったことがある。晩年には毎年、多忙ななか祭りに合わせて帰郷し、村人とともに獅子舞を楽しんだという。
帰郷の際に栄一が好んで食べたといわれるのが「煮ぼうとう」。小麦粉で作った幅広の麺をたっぷりの野菜と一緒に醤油味のだし汁で煮込んだもので、昔から深谷に伝わる郷土料理だ。深谷を訪れたら、栄一も愛した素朴な味をぜひかみしめてみたい。
スポット詳細
- 住所
- 埼玉県深谷市血洗島247-1
- エリア
- 北部エリア
- 電話番号
- 0485871100
情報提供: ナビタイムジャパン