厳原城下町めぐり
国境の島の中心地で波乱に富んだ島の歴史に触れつつ町歩き
対馬を治めた宗氏の城跡、金石城跡
厳原の中心地といえる交差点脇にある「観光情報館 ふれあい処つしま」から西のほうを見ると、立派な櫓(やぐら)の立っているのが目に入る。金石城跡と呼ばれる。近づくと、ビルの5、6階はありそうな高さで、凛としたたたずまい。左右の石垣も堅固だ。対馬を統治していた宗氏によって1528年(享禄元)、この周辺に館が建てられ、1669年(寛文9)に櫓が築かれたという。現在の櫓は1990年(平成2)に再建された。九州の豪族だったとされる宗氏は鎌倉時代の1243年(寛元元)、それまでこの地を治めていた阿比留(あびる)氏より権力を引き継ぎ地頭となった。一方、阿比留氏は神官としてその後も勢力を維持し、現在でも、阿比留は島内で最も多い姓となっている。その後、宗氏は明治維新まで続く。「鎌倉以来、明治維新までつづいた大名などは何軒もないのではないか」と司馬遼太郎は『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』で記している。1274年(文永11)と1281年(弘安4)に「文永・弘安の役」と呼ばれる蒙古襲来、いわゆる元寇があったことは、歴史が苦手という人でも知っている史実だろう。蒙古軍と最初に戦ったのは宗氏だったのである。
宗氏一族の墓所がある万松院
対馬を治めた宗氏は、国境の島ならではの波乱に富んだ歴史を歩んでいく。朝鮮の王朝と深い関係を結び交易などを活発に行っていった。途中、何度か断絶などもあったものの、その後、国交を回復し、再び交流を重ねた。だが、最も大きなダメージとなったのは、1592年(文禄元)の文禄の役と1597年(慶長2)の慶長の役と呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮出兵だったに違いない。それまで築いてきた朝鮮との関係は、日本の朝鮮侵略によって損なわれた。しかしながら、1598年(慶長3)に秀吉が死去すると、対馬藩は徳川家康から朝鮮との国交回復を命じられる。このとき宗氏第19代義智(よしとし)は国書を改ざんして、朝鮮との国交を回復、朝鮮通信使が来日することとなった。第20代義成(よしなり)の時代、独立を狙っていた対馬藩の家老、柳川調興(やながわしげおき)は国書改ざんを幕府に直訴したが、当時の将軍徳川家光は義成を無罪、柳川調興を津軽に流罪とした。柳川事件(柳川一件とも)と呼ばれる。義成は父、義智が死去したのち、1615年(元和元)に墓所を設け、寺を建立した。寺は万松院(ばんしょういん)と呼ばれ、宗氏の菩提寺となっている。
朝鮮通信使を迎えた町並み
金石城跡や万松院の周辺には、古い石垣が見られ、朝鮮通信使の碑なども立っている。城下町である厳原には、かつて武家屋敷が並んでいた。現在、屋敷の建物は残っていないが、屋敷の石垣はあちらこちらで目にすることができる。厳原の町北部の中村地区には武家屋敷通りが続き、昔の石垣が点在している。それ以前にも朝鮮から通信使が来ることはあったが、1607年(慶長12)以降、朝鮮通信使は12回来日している。最後の12回目は天明の大飢饉により延期され、1811年(文化8)、日朝両国の財政悪化を理由に使節の応接を江戸ではなく対馬の厳原に変更されて実施された。このとき、厳原の石垣はさらに美しく整備されたという。なお、その後も通信使の派遣はたびたび計画されたものの、財政難などの理由により延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮通信使を迎える最初の日本の町として整えられた厳原の町並みを歩きながら、あらためて島の歴史に思いを馳せた。
スポット詳細
- 住所
- 長崎県対馬市厳原町西里200(金石城跡)他 地図
- エリア
- 壱岐・対馬エリア
- 電話番号
- 0920521566
- 時間
- [観光案内所]8:45-17:30
- 備考
- ※電話番号は対馬観光物産協会に繋がります。
情報提供: ナビタイムジャパン