津和野城跡
津和野の町を見下ろす「天空の城」に、壮大な城郭の石垣が残る
リフトで楽々登れる絶景の城跡
津和野の町を見下ろす標高362mの山上に、「日本100名城」の津和野城跡がある。そこに城郭の建造物は残らないが、石垣がほぼ完全な状態で残り、往時を今に伝えている。山上の城跡といえば、ふもとから山道を汗だくで登り、苦労してたどり着くイメージがあるが、ここでは、山麓から「津和野城跡観光リフト」を利用すれば、城跡のある山上まで苦もなく登ることができる。山上に広がる城跡では、壮大な石垣に目を奪われる。また、そこからは箱庭のような盆地に広がる町並みや、津和野川の流れを一望できる。石垣に見ごたえがあるだけでなく、「絶景スポット」としても魅力的な場所だ。また気象条件次第ではあるが、秋から冬にかけては津和野盆地が朝霧に包まれ、山上の城跡が雲上に浮かび、「天空の城」を思わせるような幻想的な姿を対岸から見ることもできる。津和野を訪れ、家老屋敷跡や藩校跡が残る「殿町通り」の散策を楽しんだ折には、ぜひともこの城跡へも足を運び、津和野が「長い歴史をもつ由緒ある城下町」だったことを体感してみたい。
鎌倉時代から560年に及ぶ歴史をもつ
津和野城の歴史は、遠く鎌倉時代にさかのぼる。文永・弘安の役(1274年・1281年)の元寇(げんこう)のあと、鎌倉幕府から西石見の海岸防衛を命じられた吉見頼行(よりゆき)が1295年(永仁3)から築城を始め、2代30年という年月をかけて築城された。以後吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間、その後、明治維新まで亀井氏が11代225年にわたり、ここに城主として君臨した。1686年(貞享3)に落雷のため天守は焼失したが、明治維新後の1874年(明治7)に石垣を残して解体されるまで、櫓(やぐら)などの建造物が残っていた。今では石垣や石畳を残すのみだが、そのスケールの大きさに圧倒される。「一本松城」あるいは「三本松城」と呼ばれた吉見氏の時代には、尾根に多くの曲輪(くるわ)をもつ典型的な中世山城で、このような壮大な石垣はなかった。城跡には、その吉見氏時代の土塁跡も残っている。城郭の石垣は、1600年(慶長5)の「関ヶ原の戦い」のあと入城した坂崎直盛(さかざきなおもり)により造成されたものだが、坂崎氏は1615年(慶長20)の「大坂夏の陣」における「千姫事件」のためお家断絶となり、坂崎氏に代わって亀井氏が1617年(元和3)に津和野藩主となった。
山上の城跡のふもとに2つの櫓が現存する
かつて三層の天守が立っていた天守台は、城下を眼下にする城の最高所「三十間台」から一段下がった場所にある。この城郭を造営した坂崎氏は結局1代で改易されてしまったが、外様大名だった坂崎氏の「徳川幕府へのおもんぱかり」が見て取れるようで興味深い。この津和野城のふもとには、かつて藩主亀井氏の居宅と津和野藩庁があった。今は藩主の居宅跡が「嘉楽園(からくえん)」となり、藩庁跡は津和野高校のグラウンドとなっているが、藩庁の「馬場先櫓」と「物見櫓」が現存し、城跡とともに国指定の史跡となっている。馬場先櫓は、近くに馬場があったことから名付けられたものだ。物見櫓のほうは、大正時代に嘉楽園に移築された。2つの櫓は城跡に上るリフト乗り場のすぐ手前にあるので、ついでに立ち寄ってみたい。またリフト乗り場のすぐ先には、亀井氏が津和野藩と領民の安寧を祈願するため京都の伏見稲荷から勧請した「太皷谷稲成(たいこだにいなり)神社」があるので、あわせて訪れよう。
スポット詳細
- 住所
- 島根県鹿足郡津和野町後田イ477 地図
- エリア
- 津和野・益田エリア
- 電話番号
- 0856720376
- 時間
- [観光リフト]9:00-16:30(下り最終16:20)
- 休業日
-
[観光リフト]12月-2月の平日
※その他臨時運休あり - 料金
- [観光リフト代]往復700円
- 駐車場
- あり(10台)
- クレジットカード
- 不可
- 電子マネー/スマートフォン決済
- 不可
- Wi-Fi
- あり(kankoulift)
- コンセント口
- なし
- 喫煙
- 不可
- 滞在目安時間
- 60-120分
- 備考
- ※住所・電話番号は観光リフトのものになります。
情報提供: ナビタイムジャパン