幻の霊場!大和北部八十八ヶ所第14番霊場「空海寺」


2019.04.01

トラベルjp 旅行ガイド

東大寺の真北側に位置する空海寺は、空海に縁の深いお寺です。
空海寺という寺院名のお寺は全国で、ここにしかありません。
空海から高野山や京都の東寺を想起する方も多いかもしれませんが、実は奈良は空海が入唐するまで過ごした縁の土地です。
今回は、幻の霊場・大和北部八十八ヶ所霊場と空海寺、庶民の信仰を集めた本尊阿那地蔵菩薩や矢田地蔵尊、境内に眠る奈良の文化財保護運動家・棚田嘉十郎についてご紹介します。
空海寺のご由緒
弘法大師 空海は、平安時代初期に唐より真言密教をもたらした真言宗の開祖です。
平安時代の804年、東大寺で受戒し正式な僧侶となり入唐。806年に帰国した空海は、勅令により810年に東大寺14代別当(寺院を統轄する長官)に就任します。空海は、その後、814年まで4年間別当職を務めました。
在任期間中に、東大寺境内に自ら彫った地蔵菩薩の石像を安置する地蔵堂を建て、自身の生活の場である草庵としました。その草庵が、空海寺のおこりとされます。
秘仏 阿那地蔵尊
空海が一刀三礼して彫刻した地蔵菩薩は、空海寺の本堂に本尊としてお祀りされています。本尊は、阿那地蔵尊(あなじぞうそん)と呼ばれる秘仏となっています。
空海は地蔵菩薩を地蔵堂内の石窟に安置しました。その姿が、穴ぐらの中にあるところから阿那(阿那=穴)の字を当て、阿那地蔵尊と呼ばれるようになったといいます。
空海が自作したという石窟は、1734年、江戸時代の本堂再建の際に失われてしまいましたが、地蔵菩薩石像は右に不動明王、左に聖徳太子を従え現在もその姿を伝えます。
また、阿那地蔵尊は空海がこの草庵で「いろは四十七文字」を創作したという伝説から、仮名地蔵とも呼ばれ、その名が変化したという話もあります。「いろは四十七文字」はいろは歌としても知られ、そこに込められた仏教の深い教えから空海によるものでないかといわれていますが、作者は依然はっきりとはされていません。
諸説ある名前の由来ですが、「阿那」には「有難い」「霊験あらたかな」という2つの意味が込められているといいます。
庶民の信仰の場、朝日地蔵
本堂に向かって左手前には、矢田地蔵菩薩石像が立っています。
もともとは、奈良県大和郡山市にある矢田寺から移転され、江戸時代末期の1864年に空海寺に造立されたものです。矢田寺は、平安時代以降、地蔵信仰の中心地として栄えてきたお寺です。
花崗岩でつくられた矢田地蔵は、座高約133センチで高さ約180センチの船型の石に彫られ、左右に十王像を配した光背を背負っています。
死後に生前の行いに対して裁きを与える十王は冥界を司る王で、閻魔大王も十王の1人です。その姿は、江戸時代にもっとも盛んだったこの地方の地蔵信仰の姿をあらわします。
矢田地蔵は地元の人たちには、現在も朝日地蔵の名で親しまれています。
矢田地蔵は、矢田山のある西を向いて立っています。そのため必然的にお参りをする際には、東を向いて拝むことになります。矢田地蔵の光背の光線が太陽の光を思わせる所から、そう呼ばれ出したと推測されます。
毎年7月23・24日には、地域の人たちが集まり祭儀がおこなわれています。矢田地蔵の仏前には、地元の人たちの篤い信心もあり常に供花が捧げられたえることがありません。
大和北部八十八ヶ所第14番霊場 空海寺
大和北部八十八ヶ所霊場は、江戸時代中期(1764~1772)に、つくられた霊場です。空海寺は、第14番霊場 となっています。
大和北部八十八ヶ所霊場は、廃寺や無住となっている寺もあり、幻の霊場とも呼ばれます。同じ八十八ヶ所霊場では、空海ゆかりの四国の寺院を巡る四国八十八ヶ所霊場が有名ですが、奈良も実は空海にゆかりあるお寺がたくさんあります。空海は15歳で奈良の平城京へ上京し、様々な寺院を訪れ仏道の修行に励み、入唐するまで過ごしました。
大和北部八十八ヶ所霊場は、大安寺を一番札所、久米寺を八十八番札所とします。大学を退学した空海は大安寺を仏道を求めて訪れ、密教の修法、虚空蔵求聞持法を修行僧から授かりました。久米寺は、空海が大日経を発見し、より深い理解を求めて唐にわたる決意をするきっかけとなったお寺です。
空海寺では、御朱印をお願いすると散華を1枚いただけます。御朱印を書き損じたお詫びにお渡ししたのが最初だったそうです。
散華には可愛らしい仏様が描かれています。
デザインしたのは住職さんで、洋画家だったお父様が書かれた絵をアレンジしています。描かれているのは、東大寺法華堂の月光菩薩という仏様です。一筆でさらりと描かれていますが、無駄のない表現の中にも的確にその表情がとらえられています。
奈良平城宮跡保存の先駆者、棚田嘉十郎墓碑
空海寺は、東大寺の僧侶の方たちや奈良にゆかりの深い文化人の墓所ともなっています。中門南側にたたずむのが、平城宮の保存運動に身を捧げた棚田嘉十郎のお墓です。
平城宮跡は、奈良時代710年に遷都された平城京の中心であった宮跡です。
棚田嘉十郎(たなだ かじゅうろう)は、1860年(江戸末期)に奈良に生まれました。植木職人だった棚田は、奈良公園などの植栽を手がけ、しばしば観光客から平城宮跡の場所を訪ねられていました。
ある日、都跡村の知人から都跡村が平城宮跡の跡だと教えられます。荒れ放題の宮跡地を目にした棚田は、宮跡保存の決意を固め、私財を投げうち保存運動に奔走します。
1906年に平城宮址保存会を設立、1910年(明治43)に知事の協力を得て平城遷都1200年祭を成功させます。1913年(大正2年)には、奈良大極殿址保存会を設立、宮跡の買収を進めました。しかし、貧困の内に体調を崩した棚田は脳充血で倒れ失明してしまいます。
そして、1921年(大正10)、自身が推挙した協力者の裏切りの責任をおい自刃しました。空海寺の棚田嘉十郎のお墓は、1923年(大正12)に、奈良太極殿保存会により建立されました。
亡くなってから翌年に、平城宮跡は国の史跡として保護されることになります。現在の平城宮跡は、綺麗に整備され国営の平城宮跡歴史公園となっています。棚田の尽力がなければ、その地は忘れ去られたままだったかもしれません。
棚田嘉十郎の墓碑は、はるか平城宮跡の方向を向いてたたずんでいます。その功績を知り、お参りに来られる方も増えてきました。
2014年境内東側の場所から、東大寺造営時に地鎮具として埋蔵されたと推測される壺と和銅開珎が見つかりました。発掘された場所は、樹木葬墓地として整備され記念碑が立っています。 

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空海寺
place
奈良県奈良市雑司町167
phone
0742222096
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