“兵共が夢の跡”源義経終焉の地・岩手「高館義経堂」でもののふ達を偲ぶ


2017.11.12

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源義経終焉の地とされる、岩手県西磐井郡平泉町の「高館義経堂」。ここはかつて、義経公が身を寄せていた「衣川館」があった場所です。この地で義経公が妻子とともに悲しい最期を迎えたことは、「弁慶の立ち往生」の伝説などとともに語り継がれ、500年の時を経て俳聖・松尾芭蕉の句にも詠まれました。そんな「高館義経堂」の見どころと、義経公や芭蕉が眺めたであろう風景についてご紹介します。
源義経公を偲んで建てられた「高館義経堂」
平氏討伐後、兄である源頼朝に追われた源義経は、奥州藤原氏三代藤原秀衡の庇護を受け、高館に居館を与えられました。それが衣川館(衣河館,ころもがわのたち)。地元では判官館という名でも呼ばれています。
ところが秀衡公が病没したのち、跡取りである四代泰衡は頼朝からの度重なる圧力に耐えかね、1189年、父の遺言に背いて衣川館を急襲してしまいます(衣川の戦い)。義経公に付き従ってきた武蔵坊弁慶などの忠臣たちが応戦するも、圧倒的な数の差に敗れ、義経公は妻子と共に自害したと伝えられています。
1683年、仙台藩主第四代伊達綱村公が、若くして命を絶たざるをえなかった義経公を偲び、この地に「高館義経堂(たかだちぎけいどう)」を建てました。現在の高館と「高館義経堂」は、世界遺産「毛越寺」の飛び地境内となっています。
「高館義経堂」の御本尊は、木造の源義経公像です。義経公は享年31歳。鎧兜を身につけた凛々しい姿からは、勇ましさと威厳が感じられます。
「高館義経堂」に併設されている資料館では、年表や義経公とかかわる人々の解説など、さまざまな資料が展示されています。こちらにも立ち寄って、時代背景や人物像をおさらいしてみてはいかがでしょうか。
松尾芭蕉の有名な俳句を生んだ眺め
「高館義経堂」の正面には、美しい風景が広がっています。雄大な北上川の向こうには、安倍頼時の時代に桜の木を一万本植えたと言われる束稲(たばしね)山。西行法師は平泉を訪れた際に、その景観に驚き「聞きもせず 束稲山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは」という歌を詠みました。
写真の左の方では、前九年の役・後三年の役の戦いの場となった衣川が、北上川に合流しています。
俳聖・松尾芭蕉も1689年、東北を巡る旅の途中で平泉を訪れています。そして高館にて、有名な句「夏草や 兵どもが 夢の跡」が生まれました。次の写真は、高館にある「松尾芭蕉句碑」。「奥の細道行脚300年」を記念して建てられたものです。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。(中略)「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ。
夏草や 兵共が 夢の跡
松尾芭蕉『おくのほそ道』(「高館義経堂」公式サイトより)
「高館義経堂」には、幕末の尊王攘夷派の志士、頼三樹三郎の詩碑も建てられています。奥州藤原氏の繁栄と滅亡、若くして命を落とした義経公。後世まで文人たちの心を震わせた高館の風景を、歴史に思いを馳せながら眺めてみませんか。
犠牲となった人々を供養
写真は義経堂のそばにある「源義経主従供養塔(宝篋印塔)」。昭和61年、藤原秀衡公・源義経公・武蔵坊弁慶800年の御遠忌を期して造立されました。
また、「高館義経堂」の駐車場と拝観券発行所の間には、「往古両軍戦死者供養塔」がひっそりと建っています。こちらは、衣川の戦いで命を落とした人々を、義経軍と泰衡軍どちらも供養するためのもの。
時代の犠牲になってしまった人々を弔う心は、現代にまで受け継がれています。
歴史好きにも見逃せない!義経公の絵馬と御朱印
「高館義経堂」の絵馬は、義経公が身に着けたとされる長鍬型の兜を描いたもの。戦上手の義経公にあやかるべく、「必勝」の文字が赤で書かれています。大事な勝負に勝つだけでなく、弁慶のように信頼できる仲間が得られるよう、想いを込めたいところですね。
参拝の証に、「義経大明神」と書かれた御朱印もぜひ授かりましょう。御朱印は参拝した後にいただくのが一般的ですが、こちらでは御朱印をいただける「拝観券発行所」と義経堂が離れているため、拝観券を購入したときに御朱印帳を預けておくことができます。 

高館義経堂
place
岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14
phone
0191463300
opening-hour
8:30-16:30[11/5-3/4]8:30-16:…

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