大河ドラマ『西郷どん』を追って鹿児島旅--穏やかな霧島通いから西南戦争へ


2018.02.02

マイナビニュース

幕末の英雄、西郷隆盛を主人公にした2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』。すでにドラマでも描かれている通り、鹿児島で生まれ育った西郷だが、その命を全うしたのも故郷・鹿児島だった。前編に続き後編では、西郷の晩年をたどりながら、最後の戦いとなった西南戦争の舞台をはじめとする史跡を紹介しよう。
○帰郷した西郷が何度も通った霧島の温泉地
征韓論争に破れ、明治政府から身を引いた西郷。鹿児島へと帰郷してからは、農作業に精を出しては地元の温泉に浸かる、穏やかな日々を過ごしていた。中でも、霧島にある日当山温泉がお気に入りで、足繁く通っていたという。日当山温泉は鹿児島空港から車で15分程に位置し、現在も温泉地として栄える。温泉は無色透明のつるりとした泉質で、少し熱め。鹿児島を訪れるのならぜひ浸かりたい。
また、2017年12月には西郷が霧島で湯治をした際に泊まった宿「龍宝家」を再現した建物が、「西郷どんの宿」としてオープン。泊まることはできないが、物産館やレストラン、足湯などの施設が開業予定だ。
○西南戦争を伝える、私学校跡の壁に残る無数の弾痕
湯治を楽しみながら余生を送っていた西郷だったが、穏やかな日々もつかの間、西南戦争に巻き込まれていくことになる。鹿児島市内にある城山は、西郷が最後の激戦を繰り広げた地域。国内最大級とも言われる内乱の激しさを伝える史跡が、数多く残っている。
西郷が籠もった城山へ向かう前に、まずは麓にある史跡を見ていこう。ここには、西郷とともに新政府を抜けて鹿児島に帰郷した若者たちの修練の場となった私学校跡や、島津氏の居城であった鶴丸城などが残る。西南戦争の一因となった私学校跡は薩軍の本拠地として使われたため、新政府軍から壮絶な集中攻撃を浴びた。この石垣には、当時の無数の銃弾の跡が残っている。
西南戦争では、鹿児島の街の9割が焼失したという。私学校跡に隣接する鶴丸城も例に漏れず戦火に包まれ、二の丸が炎上した。現在、本丸には鹿児島の歴史をたどる「鹿児島県歴史資料センター黎明館」が建つ。西郷や大久保利通など、幕末の英雄たちの資料も充実しているので、時間に余裕があれば立ち寄りたい。
○西郷たち薩軍が最後に立て籠もった城山
鶴丸城からはカゴシマシティビューという周遊バスが出ている。これに乗り、まずは城山の頂上を目指そう。城山はもともと鶴丸城の後詰めの城だったこともあり、急な坂道が続く。
頂上に到着して市内と桜島が一望できる展望台で写真を撮ったら、少し下って薩軍本営跡(ドン広場)へ。観光客でにぎわう展望台に比べ、この場所には人気がなく、ひっそりとしている。5万人の新政府軍に包囲され、わずか300人でここを守った薩軍の悲哀が漂っているようでもある。
さらに下っていくと、高さ5mほどはあろうかという西郷の銅像が見えてくる。凛々しいこの像のすぐ脇にあるのが、西郷が自刃の前に立て籠もったと伝わる西郷洞窟だ。奥行き4m、入り口の高さ2.5mという小さな洞窟で、巨漢で知られる西郷でなくとも狭いと感じる大きさ。西郷はここに身を隠しながら、最後まで薩軍の指揮を執った。
西郷がこの洞窟に立て籠もってから6日目の未明、怒号のような砲撃が城山に響く。ついに総攻撃が始まったのだ。これ以上は逃げられないと悟った薩軍は、本営から飛び出し最後の戦いに挑む。西郷もこの洞窟を脱し進撃したが、雨あられと降り注ぐ銃弾を太ももと腹に受けてしまう。
「晋どん、もうここらでよか」。西郷は側にいた別府晋介にそう告げると、銃弾の飛び交う中に座り、別府に介錯を求めた。別府は涙を流しながら「ごめんやったもんせ(お許しください)」と叫び、西郷の首めがけ刀を振り下ろす。享年51、波乱の人生の幕切れだった。
そんな西郷の終焉の地碑は、かつてここで凄惨な戦争が起きたとは思えないのどかな住宅街の中にひっそりと立つ。その生涯に思いを馳せながら、静かに手を合わせたい。
○西郷と薩軍兵士が眠る、桜島を見晴らす墓所
西郷の死後、他の兵士たちも新政府軍の攻撃の前に散った。市内から北へ5分ほど車を走らせた先にある南洲神社には、西郷をはじめとする薩軍の兵士2,023人を埋葬する南洲墓地がある。
鳥居をくぐり、階段を上った正面にある西郷の墓はその中でも一際大きく、色鮮やかな花が供えられていた。すぐ右隣には、西郷を介錯した別府晋介も眠る。参拝を済ませ振り返ると、そこからは雄大な桜島が見えた。終焉の地からはその姿を拝むことができなかった桜島だが、西郷はここから毎日、この鹿児島の象徴を見守っているのだ。
○上野の西郷が浴衣を着ている理由とは?
最後に、鹿児島から遠く離れた東京・上野の地にある西郷の銅像を紹介しよう。愛犬ツンを連れ、凛々しい眼差しで遠くを仰ぐ西郷。西南戦争により一時は「逆賊」、反逆者として扱われていた西郷だったが、大日本帝国憲法の発布の際の大赦によってこれを許される。すると、薩摩藩出身の者たちが中心となり、銅像の建設計画を立て始めたのだ。
銅像が立てられたのは西南戦争終結から21年後。それだけの時が経っても慕われていた西郷の人望の篤さあってこそのエピソードだが、この銅像建立には裏話がある。現在は浴衣に犬を連れた姿だが、当初は騎馬像の予定だったというのだ。しかし、それには資金が不足しているということになり、軍服を着せようとしたところ猛反発する意見が。最終的に、現在の浴衣に落ち着いたという。
現在からすれば西郷のおおらかな人柄をあらわしているようにも思える浴衣姿だが、当時、浴衣は略装で、人前に出るのにふさわしい服装ではなかった。除幕式の日、銅像を見て妻のイトは「やどんしは、こげな人じゃなかったこてえ(浴衣で人前に出るような失礼な人ではなかった)」と呟いたのだとか。
今回紹介した西南戦争の史跡は、『西郷どん』でも重要な局面として描かれることは間違いない。登場するのは少し先かもしれないが、ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。
(文・写真/かみゆ歴史編集部 小沼理)
○筆者プロフィール: かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント! 」をモットーに、ポップな媒体から専門書までの編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。ジャンルは日本史を中心に、世界史、美術史・アート、宗教・神話、観光ガイドなど幅広く手がける。最近の編集制作物に『大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド』(学研プラス)、『歴史REAL 山城を歩く』(洋泉社)、『エリア別だから流れがつながる世界史』(朝日新聞出版)、『開運 日本の神社と御朱印 コンパクト版』(英和出版社)、『ゼロからわかるインド神話』(イースト・プレス)など。代表の滝沢は、歴史や城関係の講演や講座、メディア出演も行う
「かみゆ」 

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鹿児島県歴史・美術センター黎明館
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鹿児島県鹿児島市城山町7-2
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0992225100
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9:00-18:00(最終入館17:30)
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西郷隆盛洞窟
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鹿児島県鹿児島市城山町
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鹿児島県歴史・美術センター黎明館・鹿児島城(鶴丸城)跡
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鹿児島県鹿児島市城山町7-2
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9:00-18:00(入館は17:30まで)
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