興津坐漁荘
大正から昭和にかけて激動の時代を生きた西園寺公望の別邸
三保松原と並ぶ昔からの景勝地
東海道五十三次の17番目の宿場町・興津。かつて、この地には清美潟(きよみがた)と呼ばれる風光明媚な景勝地があり、「三保松原(みほのまつばら)」と並び、古くから和歌や絵画の題材にされる土地だった。明治時代になり、鉄道が開通し、温暖な気候で知られたこの場所は避寒地として愛され、政財界の大物の別荘が立ち並んだ。そのなかのひとりが総理大臣を2度も務め、「最後の元老」として知られる西園寺公。立命館大学の礎(いしずえ)を築いた人物だ。周囲から強く留任を請われたが健康を理由に政治の一線から退き、京都・清風荘を経て1916年(大正5)、興津の旅館・水口屋へと移り、以降、興津を拠点とするようになる。
住友家によって建てられた西園寺公の別荘
西園寺公が興津に移ったあとも、日本は、第一次世界大戦、後継者として期待していた原敬(はらたかし)首相の暗殺事件と激動の時代をたどっていく。興津に退いてからも西園寺公のもとには、多くの政治家が訪れており、「興津詣(坐漁荘詣)」という言葉が生まれたほど。西園寺公は静かに隠居したかったが、それが叶うことはなかったという。西園寺公が92歳で生涯を終えたのは、1940年(昭和15)のこと。平和を願って止まなかった西園寺公だったが、亡くなって1年後、日本は太平洋戦争へと突入する。「興津坐漁荘」は、西園寺公が第一次世界大戦の終結後のパリ講和会議で全権代表の大役を務めたあと、実弟である住友友純の住友家の資金で建設された別荘である。
「興津坐漁荘」は精巧に再建された建物
渡辺千冬がこの別荘を訪ねた際、西園寺公より命名を由来され、「群漁者有一人坐漁」(=周の文王は太公望が坐漁するところに会いに来て、礼を尽くして軍師に迎え入れた)という故事により、太公望を西園寺公に重ね、海が近いこの地形と結びつけて「坐漁荘」としたという。戦後、西園寺記念協会により維持管理されていたが、建物の老朽化も進み、1971年(昭和46)、愛知県犬山市にある「明治村」へ移築され、2017年(平成29)に重要文化財に指定されている。跡地となった興津の「坐漁荘」は西園寺記念公園として維持管理されていたが、2004年(平成16)に、地元からの強い希望によって約2億円かけて非常に精巧に再建し、無料公開されている。
歴史を想像しながら見学したい
当時では珍しく水洗トイレや暖炉があり、非常にモダンな造り。西園寺公が亡くなる年には冷房設備も取り付けられたという。静かなひとり住まいを好み、女中頭のみが住み込み、ほかの女中や警備は通いだった。政府の要人が訪問していたことから、会談の場所としていた2階の廊下は鶯張り(うぐいすばり)という、踏むと床板がきしみ音を出す造りになっている。また、五・一五事件、二・二六事件など政府要人の暗殺事件も多かったことから、浴室には逃走用の出入り口や非常ボタンが設置されている。
スポット詳細
- 住所
- 静岡県静岡市清水区興津清見寺町115 地図
- エリア
- 日本平・静岡エリア
- 電話番号
- 0543692221
- 時間
-
[平日]10:00-17:00
[土日祝]9:30-17:30 - 休業日
- 月(祝日の場合は開館、翌日休館日)
- 駐車場
- あり(7台)
- コンセント口
- なし
- 喫煙
- 不可
- 滞在目安時間
- 0-30分
- 雨の日でも楽しめる
- はい
情報提供: ナビタイムジャパン
アクセス
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