太宰治ゆかりの地(太宰ミュージアム・ヒストリーロード)

通り

文豪、太宰治の出身地・金木町でその足跡をたどる

青森県北西部にある五所川原市金木町は太宰治の出身地であり、津軽三味線の発祥の地でもある。毎年6月19日の太宰の生誕の日には、全国から多くのファンが訪れる。

太宰治記念館「斜陽館」の前通り。ガス灯を模した街灯がレトロな雰囲気を出している} 太宰治記念館「斜陽館」の前通り。ガス灯を模した街灯がレトロな雰囲気を出している

歴史ある建築物が並ぶ金木の街並み

太宰治は金木町のことを「これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である」と、小説『津軽』に書いている。津軽鉄道金木駅を出て西に向かい、Y字路を右へ。5分ほど歩くと、風格のある大きな建物が並ぶ通りに出る。手前左角にはニシン漁と農業で財をなした旧西沢家住宅。その先には太宰治が生まれ育った旧津島家住宅(太宰治記念館「斜陽館」)が並ぶ。太宰治記念館「斜陽館」の向かいに建つ青森銀行は建物こそ近年のものだが、その歴史はかつて太宰治の父・津島源右衛門が興した金木銀行が、やがて買収・合併を続けて現在の姿になったものだ。町の中心部には、「太宰通り」「斜陽館通り」「メロス坂通り」など、町の文化にちなんだ名の通りが5つある。これらは、太宰治文学や町の文化を楽しめる「太宰ミュージアム・ヒストリーロード」と呼ばれ、それぞれの通りにはパネルを設置、まるで町全体が博物館のようになっている。

金木町の随所に設置されている太宰作品のプレート} 金木町の随所に設置されている太宰作品のプレート

太宰治が疎開した家「旧津島家新座敷」

太宰治記念館「斜陽館」から東へ徒歩3分ほどのところにある「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」は、元はこの場所ではなく斜陽館とつながっていた離れ。1922年(大正11)に長兄・文治夫婦の新居として建てられたものだった。造りは斜陽館と同じく和洋折衷の建物で、終戦直前には太宰が家族とともにここに疎開。1946年(昭和21)までの1年4か月の間に、太宰はここで『パンドラの匣』『冬の花火』『トカトントン』を含む23本の作品を執筆したという。その後、1948年(昭和23)に新座敷が現在の位置へ移築された。作家となってからの太宰が住んだ家のうち、現存しているのはここだけ。太宰作品をこよなく愛する館主のガイドを聞きながら凝った造作の屋敷を巡ると、世間に知られるイメージとはまた違った太宰の姿が見えてくる。

裏通りから見える旧津島家新座敷の建物} 裏通りから見える旧津島家新座敷の建物

太宰と縁が深い寺が並ぶ太宰通り

斜陽館から北へ徒歩1分のところにある「雲祥寺」は、奥津軽随一の規模を誇り、太宰が幼い頃に子守のタケに連れられてよく通った寺。作品『思ひ出』のなかにも登場し、「噓を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を拔かれるのだ」とここで聞かされたときには恐ろしくて泣き出したという。また、雲祥寺の前の太宰通りを少し西に行くと、左手に「南台寺」がある。南台寺は津島家の菩提寺であり、太宰の兄・文治が寄贈した鐘が設置されている。またここから津軽鉄道芦野公園駅に向かって7分ほど歩くと、右手側にレンガ塀に囲まれた「太宰治 思い出広場」が現れる。ここは太宰の母校だった金木小学校の通学路で、入り口の題字は太宰の長女、津島園子氏によるものだ。ここには太宰治の作品名が刻まれたプレートが年代順に並べられており、その多作ぶりを実感できる。

幼少期の太宰が訪れていた雲祥寺} 幼少期の太宰が訪れていた雲祥寺

かつて津島家から寄贈された鐘が今も使われている南台寺} かつて津島家から寄贈された鐘が今も使われている南台寺

住宅地のなかにある「太宰治 思い出広場」} 住宅地のなかにある「太宰治 思い出広場」

スポット詳細

住所
青森県五所川原市金木町他 map map 地図

情報提供: ナビタイムジャパン

アクセス

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