こうもり塚古墳
巨大な石室が古代吉備の力を示す前方後円墳
古墳時代後期の有力豪族の墓
備中国分寺跡から歩いて5分の立地。備中国分尼寺跡との間にあるこんもり盛り上がっているところが、こうもり塚古墳だ。古墳時代後期の6世紀後半に築かれた全長約96mの前方後円墳で、被葬者はこの時代の吉備地方で最も有力な豪族だったとみられる。特徴は、巨石を積み重ねた横穴式石室(全長19.9m)だ。全国第3位の規模を誇り、飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳(全長19.1m)にも匹敵する。日本遺産「『桃太郎伝説』の生まれたまち おかやま~古代吉備の遺産が誘(いざな)う鬼退治の物語~」の構成文化財の1つにもなっている。
巨石を組み上げた迫力ある石室
石室は通路にあたる羨道(せんどう)と、棺を安置した玄室(げんしつ)で構成される。後円部の地上にのぞいている開口部から、羨道を進んでいくと、暗がりのなかに高さ約3.6mの巨大な花崗岩で壁と天井が築かれた玄室が広がる。玄室の中央には、現在の岡山県井原市で産出された貝殻石灰岩の浪形(なみがた)石を加工した大きな石棺があり、神秘的な雰囲気が漂う。玄室内からは、金銅装単鳳環頭大刀(こんどうそうたんほうかんとうたち)の把頭や鉄鏃(てつぞく)、馬具、須恵器(すえき)などの多様な副葬品が見つかっている。
吉備の美女黒媛と仁徳天皇の悲恋が伝わる
かつては、『古事記』に記された仁徳天皇の寵愛を受けた黒媛(くろひめ)の墓というロマンティックな説があり、「黒媛塚」と呼ばれていた。黒媛は、黒髪が長く艶やかで、誰もが振り返る美女。その噂が遠く都へ伝わり、仁徳天皇は黒媛をお召しになり、幸福な日々を過ごしていた。しかし、黒媛は后の嫉妬を恐れて吉備へ逃げ帰る。これを悲しんだ天皇は黒媛を訪ねるが、やはりひとりで都へ戻らねばならないという悲恋の物語だ。しかし調査の結果、築造は黒媛より100年以上後と判明している。コウモリが生息していたことから現在の名前になった。
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情報提供: ナビタイムジャパン