木戸孝允旧宅
倒幕から明治維新を駆け抜けた俊豪の原点
藩医の家に生まれ、武家・桂家の養子となる
江戸時代、周防(すおう)と長門(ながと)の両国を治めていた長州藩。木戸孝允は1833年(天保4)、長州藩の藩医だった和田昌景(まさかげ)の長男・和田小五郎としてこの家で生まれた。藩医の家系であった父・昌景は、長姉に婿養子を迎え、さらに長姉没後は次姉がその後妻となったため、小五郎は和田家の後継ぎとは見なされていなかった。そして、小五郎が8歳のとき、跡継ぎのいない近隣の武家・桂家の当主に懇願されて養子に出され、武士の身分と、給料に当たる秩禄(ちつろく)を得て、桂小五郎と名乗るようになった。ところが、翌年に桂家の養父母が亡くなったため、また和田家で生活することになり、江戸に出る1852年(嘉永5)までずっとこの家で暮らした。手入れが行き届いてよく保存されている建物には、木戸誕生の間や幼少期の手習いなどが展示され、俊英と呼ばれた木戸の幼い頃や若者だった頃の姿が目に浮かぶようだ。なお、木戸は存命中に何度も改名しているが、実家に戻ったときは桂小五郎のままで、木戸孝允を名乗ったのは1865年(慶応元)とされている。
家業や時代を物語る家の造りや手習いを展示
旧宅は木造瓦葺きで、約216平方メートル、12部屋を有する豪邸である。藩医の家だけに、来客用と患者用の2つの玄関があるのが特徴だ。2階建てだが、窓をしつらえているのは藩主が参勤交代で通る御成道(おなりみち)とは反対側で、表からはあたかも平屋であるように見せている。これは、藩主を見下ろす非礼がないように配慮したとされ、江戸時代ならではの生活を感じさせるエピソードだ。また、いちばん広い8畳間は庭に面しており、そこに根を下ろす黒松は元は盆栽で樹齢350年を超えるという。8畳間の掛け軸にある「今日」という文字は推定7歳頃の木戸の手習いで、そこにも先生のほめ言葉が「もってのほかよろし」とある。この言葉をもらうと字のうまさが城下に轟くといわれ、後世、藩校明倫館で吉田松陰の薫陶を受け、幕末の獅子へと成長を遂げる片鱗が見て取れるようだ。なお、この生家は1926年(大正15)に子孫の木戸幸一が当時の萩町に寄贈し、木戸孝允の誕生の間や庭園など往時の姿を残していたことから、1932年(昭和7)に国の史跡に指定されている。
激動の明治維新、国づくりに身を捧げる
この家から江戸に出た木戸は、薩摩藩と同盟を結び、倒幕に向けて暗躍、中心的役割を担っていった。「木戸孝允」も含め、改名を繰り返したのは幕府の指名手配を逃れるためだった。維新後も、明治新政府で五箇条の御誓文の作成、廃藩置県、版籍奉還の計画を担い、封建的な諸制度を解体して近代国家の基礎をつくることに尽力した。さらに1871年(明治4)には岩倉使節団に参加し、大久保利通や伊藤博文らと2年弱、アメリカやヨーロッパ諸国を視察。各国の進んだ法制度に触れた木戸は、憲法制定の必要性を痛感して帰国した。ところが帰国後、大久保が実権を握ると、木戸が進言した憲法制定は叶わず、富国強兵に走る大久保と諸政策で対立し、木戸は政府内で孤立していった。そして1877年(明治10)に、45歳の若さで志半ばで亡くなった。念願の憲法制定は同じ萩で育った、木戸の弟分の伊藤が大日本帝国憲法として結実させることになる。そんな木戸の活躍を知ると、彼が誕生し育ったこの家の重要さをあらためて感じる。
スポット詳細
- 住所
- 山口県萩市呉服町2-37 地図
- エリア
- 萩エリア
- 電話番号
- 0838251750
- 時間
- 9:00-17:00
- 休業日
- 無休
- 料金
-
【見学料】
[一般]100円
[小学生未満]無料 - 駐車場
- なし(近隣に有料駐車場あり)
- クレジットカード
- 不可
- 電子マネー/スマートフォン決済
- 不可
- Wi-Fi
- なし
- コンセント口
- なし
- 喫煙
- 不可
- 平均予算
-
【昼】1-1,000円
【夜】1-1,000円 - 滞在目安時間
- 0-30分
- 乳幼児の入店
- 可
- 備考
- ※電話番号は、萩市観光協会に繋がります。
情報提供: ナビタイムジャパン