福知山城

博物館/科学館

時を超えてなお福知山市民に愛される、明智光秀による築城

戦国武将・明智光秀によって築かれた福知山城。戦国時代を語るうえでも重要な城である。現在は復元された天守閣が丘の上にそびえ立ち、資料館として公開。福知山市のシンボルとして親しまれている。

すぐ東側にあるガーデンと飲食店の広場「ゆらのガーデン」から見た福知山城} すぐ東側にあるガーデンと飲食店の広場「ゆらのガーデン」から見た福知山城

由良川畔の丘の上の城

東から来て土師川と合流し、大きく曲がって北へと流れていく由良川。その流域を中心に福知山盆地が形成され、寒暖差の大きな日の早朝には、山だけでなく市街地も雲海や濃い霧に覆われることがある。由良川の西側、JR山陰本線の北側に広がるエリアは、今も古き城下町の名残を残す。たびたび川の氾濫に悩まされたエリアでもある。町を見下ろす丘の上にたたずんでいるのが戦国武将・明智光秀が築いた福知山城。場所は福知山駅からほぼまっすぐ東へ向かうお城通りを歩いて約15分だ。

由良川に架かる音無瀬橋の東端から福知山城を望む。川には今も明智藪が残っている} 由良川に架かる音無瀬橋の東端から福知山城を望む。川には今も明智藪が残っている

明治に廃城するも市民の力で再建

福知山城は1579年(天正7)明智光秀による築城だ。光秀が丹波国平定の際に攻め落とした福知山地方の国人・塩見家の横山城を土台とし、由良川に突き出した丘陵に築かれた平山城だ。しかし光秀時代の遺跡は転用石を使った野面積(のづらづみ)の石垣のみ。城主が変わるたびに改修や増築が行われ、1873年(明治6)の廃城令を受けて天守は取り壊され、土地建物は払い下げに。二の丸の高台は削られ、堀や池は埋め立てられた。残ったのが天守周辺の石垣と銅門(あかがねもん)番所である。現在の天守閣は市民らによる「瓦一枚運動」で1986年(昭和61年)に再建された。江戸時代初期の頃の絵図を元にした、三層4階の望楼型の大天守と二層の小天守である。

「続日本100名城」に選ばれた福知山城の天守閣。石垣には光秀時代の面影がある} 「続日本100名城」に選ばれた福知山城の天守閣。石垣には光秀時代の面影がある

望楼の北側には由良川と城下町が広がる} 望楼の北側には由良川と城下町が広がる

五輪塔や宝篋印塔などの石像物を転用石として用いた石垣} 五輪塔や宝篋印塔などの石像物を転用石として用いた石垣

二の丸(現在の福知山市役所付近)の登城口にあった銅門番所} 二の丸(現在の福知山市役所付近)の登城口にあった銅門番所

光秀から朽木為綱まで歴代城主を知る

初代城主となった光秀は、娘婿の明智秀満を城代に置いて城下町を整え、由良川の氾濫を防ぐために「明智藪」を造るなど治水工事を行い、また地子銭(宅地税)を免除するなど善政を敷いたことから、光秀は江戸時代以降も「福知山城のお殿様」と呼ばれ続け、今も市民から親しまれている。2代目城主は羽柴秀長、次いで杉原家次、小野木重次、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房と変わり続け、9代から最後の21代までは朽木家が福知山藩主を務めた。現在、福知山城内は資料館として公開。1階は明智光秀に特化し、2階は以降の歴代城主は書き記した資料などを展示。残された筆跡や歌の内容から城主の人柄が感じられるような気持ちになる。

城主ごとに手紙や歌などを展示。手前は14代城主・朽木綱貞によるトドの写生図} 城主ごとに手紙や歌などを展示。手前は14代城主・朽木綱貞によるトドの写生図

スポット詳細

住所
京都府福知山市内記5 map map 地図
電話番号
0773239564
時間
9:00-17:00(最終入館16:30)
休業日
火、年末年始(12/28-31、1/4-6)、2022年のみ竜王戦開催により11/2-11/10臨時休館(11/3除く)
料金
【観覧料】
[大人]330円
[子供]110円
駐車場
あり(70台※大型バス6台)
クレジットカード
不可
電子マネー/スマートフォン決済
可(Suica、PASMO、ICOCA)
Wi-Fi
なし
コンセント口
なし
喫煙
不可
英語メニュー
あり
滞在目安時間
30-60分
車椅子での入店
不可(エレベーターなし)
乳幼児の入店
ペットの入店
可(キャリーバック等ご利用ください)

情報提供: ナビタイムジャパン

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アクセス

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最寄り

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