乙訓寺
長岡京の歴史に名を刻む早良親王と空海ゆかりの寺院
平安京遷都のきっかけとなった事件
乙訓寺は第33代・推古天皇の勅願によって聖徳太子が創建したとされるが、日本史の舞台に名を刻むのは785年(延暦4)のことだ。その前年に第50代・桓武天皇は都を奈良から京都の長岡京に遷すが、遷都後、間もない都で長岡宮造営長官・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺された。この事件に関わったとして天皇の弟・早良(さわら)親王が乙訓寺に幽閉される。親王は無実を訴え断食をするが、聞き入れられず淡路島へ流される道中で絶命した。ところがその後、桓武天皇の周囲では不幸が相次ぐ。桓武天皇の母、皇后が次々と亡くなり、天災が起こり、疫病も流行。「すべては早良親王の怨霊」と噂され、長岡京を恐怖のどん底に陥れた。怨霊を恐れた天皇は、わずか10年で再び都を長岡京から平安京へ遷す決心をした。
日本の密教の源流となる空海と最澄の出会い
811年(弘仁2)、桓武天皇の子である第52代・嵯峨天皇は、空海を乙訓寺の別当に任命した。間もなく、この地で修業を重ねる空海を訪ねてきたのが天台宗祖・最澄だ。唐(中国)で新しい仏教を学んだという空海に真言密教を教えてほしいと頼み、空海もそれに快く応じたという。この出会いは、真言宗と天台宗のみならず、日本の仏教の流れに大きな変革をもたらしたと考えられる。また、寺の本尊は合体大師像という乙訓寺だけで祀られる特別な仏。空海が八幡大神像を彫っていると、翁の姿をした八幡大神が現れ、空海は八幡大神の顔を、八幡大神は空海の体を写した像を別々に作り合体させたそうだ。よって、顔は翁姿の八幡大神、体は空海とされ、33年に1度開帳される。
日限地蔵尊と願いを託すわらじ
戦国時代には織田信長の兵火で焼失するも、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉により再興。明治時代の廃仏毀釈や戦後の農地改革を乗り越え、今は地名「今里(いまざと)」にちなみ「今里の弘法さん」と呼び親しまれている。参道の日限(ひぎり)地蔵は、自分で日を限ってお参りをすると願いが叶えられるのだとか。また、弘法大師像のかたわらには無数のわらじがかけられている。「足腰の病気平癒、健脚祈願、旅行安全など願い事はさまざまです。自分の思いをわらじに託してください」と住職の川俣さん。春には色鮮やかなボタンが華やぐ境内。聞けば、室戸台風で被害を受けた松並木をどうしたものかと思案していると、本山である奈良の長谷寺から参拝者への安らぎのためにと二株を譲り受けたのが始まりだそう。どこまでも自然体な乙訓寺。この空気感こそが、悠久の歴史を紡いできたという証なのかもしれない。
スポット詳細
- 住所
- 京都府長岡京市今里3-14-7 地図
- エリア
- 桂・西山エリア
- 電話番号
- 0759515759
- 時間
- 9:00-17:00(入山は16:30まで)
- 休業日
- 無休
- 料金
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【入山料】
[高校生以上]500円
[高校生未満]無料 - 駐車場
- あり(50台)
- クレジットカード
- 不可
- 電子マネー/スマートフォン決済
- 不可
- Wi-Fi
- なし
- コンセント口
- なし
- 喫煙
- 可
- 平均予算
- 【昼】1,001-3,000円
- 滞在目安時間
- 30-60分
- 車椅子での入店
- 可(境内のみ。堂内は対応しておりません。)
- 乳幼児の入店
- 可
- ペットの入店
- 可(境内のみ。堂内は抱いていても不可となります。)
情報提供: ナビタイムジャパン
クチコミ
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- 隠れた紅葉の名所
- 普段は拝観無料ですが、牡丹の時期は500円です。重要文化財の毘沙門天立像は、「牡丹祭」と「四国八十八カ所霊場お砂踏み」(11月の第三週末)の際は御開帳されます。牡丹で有名なお寺ですが、紅葉とみかんの木も綺麗です。
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- 「牡丹の寺」として有名ですが紅葉でも有名です
- 説明書からですが聖徳太子が建立したとの事なので、長岡京市では歴史有るお寺ですね。また門前に「弘法大師ゆかりの寺」と彫られた石柱の通り、弘法大師が別当を務めたお寺です。他にも長岡京初期の事件で桓武天皇皇太弟早良親王が押し込まれた寺として多くの歴史の表舞台に出て来たお寺、牡丹も有名ですが紅葉も有名です。是非歴史を感じにお出かけください。
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- 空海(弘法大師)ゆかりの寺
- 乙訓寺は、長岡天神駅から徒歩15分くらいのところにある真言宗豊山派の寺院です。推古天皇の勅願で聖徳太子が開基と伝えられている乙訓地区最古の寺院とのことです。811年に空海(弘法大師)が別当に任じられ、この寺院で最澄と空海が密教について法論を交わした寺院です。弘法大師ゆかりの寺院です。牡丹の寺としても有名です。神社仏閣に興味がある方にお勧めのスポットです。
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