原城跡
日本史に残る「島原・天草一揆」の主戦場跡
駐車場から徒歩で20分、原城跡を目指す
原城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸からなる周囲4kmの三方を有明海に囲まれた天然の要害であった。1616年(元和2)城主・有馬氏の替わりに入封した松倉重政が居城を島原へ移すこととし、一国一城令により原城は廃城となった。しかし、1637年(寛永14)、「島原・天草一揆」が勃発すると、島原半島と天草地方の領民あわせて約2万人以上が廃城となった原城に立て籠もった。対する幕府は総勢12万の軍勢によって鎮圧にあたり、およそ3か月に及ぶ籠城戦の末、一揆勢は敗れた。一揆勢の多くがこの戦いによって亡くなり、一揆終息後、城も幕府軍によって破壊された。今は石垣が残るだけで当時の面影はないが、築城当時は別名「日暮城」と呼ばれたほど美しい城だったといわれている。駐車場から城跡に続く道を20分ほど歩くと、原城二ノ丸の案内板があり、正面に本丸を囲う小高い丘が見える。確かに大きな城だったということが、その様子からうかがい知ることができる。戦いで亡くなった人たちに思いを馳せながら、まずここでシャッターを切ろう。
城跡を歩き、一揆の凄まじさを感じる
敵の侵入を困難にする空堀跡を過ぎ、本丸への石段を登ると、ホネカミ地蔵が祀られている。ホネカミ地蔵は、1766年(明和3)に建立されたもので、原城一帯に散乱していた敵も味方もない骨を集め供養したという。安らかな顔のお地蔵様に手をあわせ、本丸正門跡、埋門跡へと進む。本丸正門跡は、地面に残った大きな礎石から櫓門が建てられたと考えられ、とても重厚な造りの城だったことがうかがえる。最後の本丸門跡を抜けるとその先に階段が設けられ城内へ続いているが、ほかの門跡と同じように一揆終息後に幕府軍より破壊され、礎石の一部はなくなり、階段の踏み石はわずかしか残っていない。周囲には、幕府が城を破壊したときの石がごろごろと今も横たわっている。
本丸には大きな十字架と祈りを捧げる天草四郎像が立つ
本丸には、神々しい十字架のオブジェがそびえ立っている。錆のついた十字架に過ぎ去った長い年月が感じられる。総大将の天草四郎をはじめ、亡くなった一揆勢のほとんどがキリシタンであったと伝えられていることから、キリシタンゆかりの地として巡礼者も多い。一角には、南島原市出身の彫刻家・北村西望氏が手がけた、「祈りをささげる天草四郎像」や「天草四郎時貞の碑」などが設置されている。天草四郎は若干15歳の若さで一揆勢の総大将に抜擢された人物で、人並みはずれた才覚をもつ美少年だったと伝わっている。十字架を胸に祈る姿は、精悍で力強い。
本丸から有明海の絶景を望む
本丸からは一面に広がる有明海と、天草四郎の故郷でもある天草半島を望むことができる。400年前から変わらない海の風景だ。長い籠城生活のなか、四郎をはじめ多くの農民たちはこの風景をどのような気持ちで見つめていたのだろうか。発掘調査では、多数の人骨に混じって、十字架やメダイなどが出土していることから、多くの農民たちは過酷な状況にあっても信仰を支えに生きていたと推測されている。悲劇の舞台である原城跡を歩きながら、あらためて平和の尊さを感じてみよう。
スポット詳細
- 住所
- 長崎県南島原市南有馬町乙 地図
- エリア
- 小浜・雲仙・島原エリア
- 電話番号
- 0957736633
- 時間
-
終日
[無料VR貸し出し(毎日)]9:30-16:00
[500円ワンコインガイド(土日祝)]9:30-16:00 - 休業日
- 無休
- 料金
- 無料
- 駐車場
-
あり
※「原城温泉 真砂」横の原城跡来場者駐車場をご利用ください。 - クレジットカード
- 不可
- 電子マネー/スマートフォン決済
- 不可
- Wi-Fi
- あり(Minamishimabara_city)
- コンセント口
- なし
- 喫煙
- 不可
- 滞在目安時間
- 30-60分
- 乳幼児の入店
- 可
- ペットの入店
- 可
- 備考
- ※電話番号は南島原市商工観光課へ繋がります。
情報提供: ナビタイムジャパン