霞ヶ城県立自然公園
少年隊の悲劇を生んだ城は、眺望もすばらしい桜の名所
10万700の石高を誇る大藩、丹羽氏の居城
JR二本松駅から北へ徒歩20分。緻密な石垣と平山城らしいなだらかな階段、そして白壁が印象的な櫓が見えてくる。入り口に立つ石碑の「霞ヶ城址」は二本松城の別名だ。歴史は意外に古く、室町中期(1414年頃)に畠山氏が白旗ヶ峯に居を移したのが始まり。戦国時代、伊達政宗の支城となるが、その後蒲生や上杉、加藤など領主が数十年おきに変わる時代が続いた。1643年(寛永20)に丹羽光重が入府し、城下町を整備、幕末まで丹羽氏の居城となった。戊辰戦争で落城、焼失したが、1982年(昭和57)に城郭の一部復元が始まった。
戊辰戦争が生んだ悲劇の二本松少年隊
1868年(慶応4)、新政府軍の侵攻が迫るなか(戊辰戦争二本松の戦い)、奥羽越列藩同盟に加盟していた二本松藩の兵力は仙台からの応援を含めわずか1000人、対する新政府軍は7000人と圧倒的な差があった。そこで13〜17歳の少年たち約60人がみずから志願し、出陣したのが少年隊である。13歳は昔の数え年であっただけに、あどけない顔の少年もいた。二本松藩は善戦するものの、壮絶な戦いののち城は炎上・陥落した。少年隊も犠牲者を出し、また、生き残った二本松藩士たちも長い間「賊軍」の汚名を着せられ、大正の時代になってようやく犠牲者の菩提を弔うことができたという。
史跡・二本松城の見どころ
二本松城の再建は「箕輪門」から始まった。丹羽光重は藩内から良木を探し、結果、箕輪村(二本松市)山王寺山の御神木を主材として箕輪門が完成した。「洗心亭」は城内にあった茶亭のひとつで、天保の頃山崩れにより倒壊、阿武隈川河畔に再建後、1907年(明治40)に現在の地に移築され「洗心亭」と名づけられた。茶室は茅葺き屋根の寄棟平屋造で、6畳の座敷と2室からなり、秋の菊人形展のときなどに公開される。本丸の石垣は、織田信長の「安土城」の石垣を積んだ穴太衆(あのうしゅう)という石工集団が積んだもので、再建時にもその集団の技術を継承する職人が活躍した。ここからは二本松市街が一望できる。
「日本100名城」にも選定
箕輪門や本丸の石垣以外にも、二階櫓、多聞櫓、天守台などが復元されている。二本松城は「日本100名城」にも選定され、2007年(平成19)7月には「二本松城跡」として国の史跡に指定されている。自然が生かされた公園にはソメイヨシノなど2500本の桜が植えられ、春は花見の名所として賑わう。また、モミジを中心とした秋の紅葉も見事で、ライトアップが幻想的な空間をつくりあげる。毎年10月から11月にかけて開催される「二本松の菊人形」も二本松の秋の風物詩として有名だ。
スポット詳細
- 住所
- 福島県二本松市郭内3 地図
- エリア
- 福島市・国見・二本松エリア
- 電話番号
- 0243555122
- 料金
- [入園料]無料
- 駐車場
- 有り(普通車400台、大型車25台)
- クレジットカード
- 不可
- Wi-Fi
- あり
- 喫煙
- 不可
- 滞在目安時間
- 30-60分
- ペットの入店
- 可
- 備考
- ※0243-55-5122(二本松市観光連盟)
情報提供: ナビタイムジャパン