名護屋城跡

城/城址

「日本100名城」に選ばれた幻の城

豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城。建物はないが、当時の大坂城を凌ぐ広大な敷地に石垣や諸大名たちの陣屋といった遺跡が残り、範囲は城を中心に半径3kmにも及ぶ。わずか7年ではかなく消えた幻の名城。歴史ファンにはマストの場所だ。

巨大な城と城下町は太閤秀吉によってわずか5か月で築かれた} 巨大な城と城下町は太閤秀吉によってわずか5か月で築かれた

7年で消えた絢爛豪華な天下人の城

明(中国)の制覇を目指した豊臣秀吉が、文禄・慶長の役を始める前に築いた名護屋城。1592年(天正20/文禄元)の開戦から7年間、大陸侵略の拠点となった城は、約17万平方メートルと当時の大坂城に次ぐ広大な敷地に、御殿や10基を超える重層櫓、茶室、能舞台までが備わり、伏見城や聚楽第にも匹敵する絢爛豪華さだった。周囲に築かれた城下町には130以上に及ぶ諸大名が陣屋を構え、商人が次々と生活物資をもたらし、最盛期には人口20万人を超えていたといわれる。当時の繁栄の様子を表したのが狩野派の絵師・狩野光信による『肥前名護屋城図屏風』。絵は名護屋城博物館で公開されている。

名護屋城址の碑のある本丸。天守台から見る眺めは最高だ} 名護屋城址の碑のある本丸。天守台から見る眺めは最高だ

「太閤が睨みし海の霞哉」青木月斗による句碑} 「太閤が睨みし海の霞哉」青木月斗による句碑

歴史のロマンを感じる広大な遺跡群

秀吉の死後に廃城となった名護屋城は、江戸時代になると唐津藩が領有し、初代唐津藩主・寺沢広高によって天守が破却された。また、1637年(寛永14)に起きた島原の乱のあと、廃城となった名護屋城が利用されることを防ぐため、石垣が徹底的に破壊された。現在、その姿を見ることはできないものの、隅部分を破壊した跡や天端石を壊すことでV字型に崩れた石垣、また徳川家康や上杉景勝、前田利家など名だたる大名の陣屋跡が残されており、それらは国の特別史跡に指定されている。名護屋城跡を中心に半径3kmの範囲に広がる日本歴史上にも類を見ない広域な遺跡群は、今や多くの人が訪れる歴史スポットだ。

城跡周辺に点在する大名たちの陣屋跡を示す絵図} 城跡周辺に点在する大名たちの陣屋跡を示す絵図

城を再利用されないよう破壊された石垣} 城を再利用されないよう破壊された石垣

420年前の名護屋城をバーチャルに再現

「遺跡もいいけど、かつての名護屋城を見てみたい」という人におすすめするのが、タブレット端末の再現CGを見ながら名護屋城跡を探索する「バーチャル名護屋城」。城内だけではなく、周辺地域も網羅されており、420年前の名護屋城を体感できる。スマートフォンやタブレットにアプリをダウンロードするか、隣接する佐賀県立名護屋城博物館でタブレットを無料でレンタルしよう。歴史好きにはたまらない、すてきな思い出になること間違いなしだ。

名護屋城跡をすべてまわると1-2時間かかるため、タブレットを見ながら効率良く見学するのがおすすめ} 名護屋城跡をすべてまわると1-2時間かかるため、タブレットを見ながら効率良く見学するのがおすすめ

名護屋城跡ゆかりの品がずらりと並ぶ博物館

城跡を散策したあとは隣の佐賀県立名護屋城博物館ものぞいてみよう。博物館では「日本列島と朝鮮半島との交流史」をテーマに、豊臣秀吉、名護屋城跡ゆかりの品々約220点と、古代から朝鮮半島との交流の歴史を展示説明で見ることができる。2階の常設展示室では、名護屋城以前-文禄・慶長の役-名護屋城以降と時代別に資料や、名護屋城後や周辺陣跡の発掘調査の成果を展示。また、定期的にさまざまな企画展も開催されているのでチェックしてから出かけたい。

名護屋城跡入り口付近にある博物館で情報収集をしよう} 名護屋城跡入り口付近にある博物館で情報収集をしよう

スポット詳細

住所
佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3 map map 地図
料金
[歴史遺産維持協力金]100円(任意)
駐車場
あり(普通車53台、バス7台)
※無料、博物館と共用
クレジットカード
不可
電子マネー/スマートフォン決済
不可
Wi-Fi
あり
コンセント口
なし
喫煙
不可
平均予算
【昼】1-1,000円
滞在目安時間
30-60分
備考
※電話番号は名護屋城跡観光案内所に繋がります。

情報提供: ナビタイムジャパン

このスポットを紹介している記事

アクセス

map map 地図

最寄り

          周辺の駅はありません。 周辺のバス停はありません。 周辺の駐車場はありません。 周辺のインターチェンジはありません。

          このスポットを共有

          back

          クリップボードにコピーしました