一草庵
放浪の俳人・種田山頭火が晩年を過ごした松山にある旧居
四国遍路で松山の温かさに触れた山頭火
松山ロープウェー街から車で約7分のところにある、自由律俳人・種田山頭火の終焉の場所。山頭火が愛媛県松山市に居を構えたのは1939年(昭和14)、すでに57歳のときだった。山口県の名家の生まれだった山頭火だが、母にみずから命を絶たれ、家業を廃業させるなど、波乱に満ちた人生を送っていた。東北から九州まで各地で句を詠みながら放浪した山頭火だが、母を供養するために訪れた四国遍路で松山の人々の温かさに触れ、松山を安住の地と決めたそうだ。山頭火の終の住処となったこの一草庵の建物は、宇和島市出身の映画監督・伊藤大輔が、その妹のために建てたもの。その後は御幸寺の納屋として使われていたが、住職の好意で住居として改造し、山頭火は1939年(昭和14)から1940年(昭和15)までの約1年間、その生涯を閉じるまで暮らしていた。
再建された一草庵は鑑賞無料で週末は内部公開も可
山頭火の没後、老朽化のために1952年(昭和27)に当時の愛媛県知事・久松定武を会長とする「山頭火顕彰会」が庵を再建。その後に周辺も合わせて整備し、当時の姿が今によみがえっている。現在では、敷地内の庭園及び建物の外観は、毎日誰でも無料で鑑賞することができる。建物の内部公開日は土・日曜、祝日のみ。内部公開日には、希望があれば「NPO法人 まつやま山頭火倶楽部」のメンバーがガイドを務めてくれ、山頭火の生涯について案内してくれる。
敷地内外に建立されている、山頭火の5つの句碑
山頭火が一草庵で暮らしたのは晩年の約1年間だったが、ここで彼はその生涯で初めての月例句会「柿の会」を開き、珠玉の句を作り上げていった。現在では一草庵の敷地内外に、彼の句碑が5つ建立されている。1つ目に建てられたのは「鐡鉢(てっぱつ)の中へも霰(あられ)」と刻まれた、1941年(昭和16)に建立された句碑。没後に初めて建てられた句碑で、その地中には山頭火のあごひげが納められている。そして2021年(令和3)に、没後80周年を記念して5つ目の句碑が完成。松山が生んだ自由律俳句の天才・朱鱗洞との合同句碑であり「蝉しぐれ英霊しみじみここにゐたまふ」(山頭火)/「へうへうと人らすぎゆけり風の中」(朱)とそれぞれ刻まれている。
位牌や扁額など、晩年の軌跡をたどることのできる内部
一草庵の内部は6畳と4畳半の二間の和室。縁側の欄間を見上げると、山頭火の俳句の師である荻原井泉水の直筆による一草庵と書かれた扁額が飾られている。また床の間には、全国を放浪しながら托鉢の僧侶をしていた頃に被っていた網代笠(レプリカ)が掛けられてある。山頭火の墓は熊本にあるが、生涯を終えた一草庵の内部には位牌も供えられている。彼は晩年、この旧居について「私には過ぎたる栖家である」と記していて、敷地内の句碑には「おちついて死ねさうな草枯るる」と詠んでいる。松山で過ごした日々は生涯で最も落ち着き、充実していて、満57歳で望みどおりの「コロリ往生」を迎えた。一草庵では、そんな安らかな山頭火の晩年の軌跡をたどることができる。
スポット詳細
- 住所
- 愛媛県松山市御幸1-435-1 地図
- エリア
- 松山エリア
- 電話番号
- 0899486891
- 時間
-
【内部公開】
[土・日・祝]9:00-17:00
※季節により変動あり - 休業日
- [内部公開]12/28-1/4
- 料金
- [見学料]無料
- 駐車場
- なし
- クレジットカード
- 不可
- 電子マネー/スマートフォン決済
- 不可
- Wi-Fi
- なし
- コンセント口
- なし
- 喫煙
- 不可
- 滞在目安時間
- 0-30分
- 車椅子での入店
- 可(トイレのみバリアフリー対応)
- 乳幼児の入店
- 可
- ペットの入店
- 可(庵内不可)
- 雨の日でも楽しめる
- はい(庵、休憩所、駐輪所)
- 備考
- ※電話番号は松山市教育委員会 文化財課宛て
情報提供: ナビタイムジャパン