方広寺

寺院

高さ六丈三尺を誇った京の大仏に思いを馳せる

今から約450年前、天下人・豊臣秀吉は東大寺(奈良)にならって大仏を祀る寺院を京都に建立した。のちに大仏と大仏殿は失われたが、大坂の陣のきっかけとなった「国家安康 君臣豊楽」の銘文が刻まれた梵鐘が現在も残っている。

見ればその大きさに驚くに違いない} 見ればその大きさに驚くに違いない

天下人が威信をかけた壮大な寺院

京阪電車の七条駅から鴨川に沿って北に歩くと「正面通」が現れる。この道を東へと進み、豊国神社の北側にあるのが方広寺だ。現在は本堂と梵鐘が並ぶ小さな境内であるが、かつては豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂を含む一帯に広がる大伽藍を誇っていた。1586年(天正14)、天下統一を目指す豊臣秀吉は奈良の東大寺にならって寺院を建立。中心となったのは高さ19mの木造大仏を安置する大仏殿で、その高さは50mを誇ったという。ちなみに東寺の現在の五重塔は高さが55mなのでいかに巨大なお堂であったか想像できるだろうか。大仏殿は「洛中洛外図」などにも描かれ、まさに京のシンボルとなっていたのだ。寺院の入り口に残る石垣が往時の壮大さを物語っている。

国の史跡に指定される方広寺の巨大な石垣} 国の史跡に指定される方広寺の巨大な石垣

現在の本堂。御朱印の授与を行っている} 現在の本堂。御朱印の授与を行っている

日本の歴史を大きく動かした梵鐘

天下人が威信をかけて建立した大仏殿であったが、完成からほどなくして不運が襲う。1596年(慶長元)、京の人びとが寝静まった真夜中に京都南部から奈良にかけての広い範囲を強い地震が襲った。この大地震の揺れは震度6に相当し、大仏は倒壊。秀吉はすぐさま大仏再建を目指すが願いは叶わず没した。その志は子・秀頼へと受け継がれ、火災や地震などの災害に見舞われながらも1612年(慶長17)ようやく完成し、落慶供養を行う手筈となっていたが、同時に再建された梵鐘の銘文の「国家安康 君臣豊楽」が徳川家康の名前を分断し、豊臣を君主とする意図があると難癖がつけられ、これが大坂の陣の導火線となってしまったのだ。

重さは約80tといわれ日本三大梵鐘のひとつ} 重さは約80tといわれ日本三大梵鐘のひとつ

京の人びとに愛された大仏の面影を探す

時代が豊臣から徳川へ移り変わると寺院は縮小を余儀なくされた。現在、本堂には当時の大仏の10分の1の大きさで江戸時代に造られた盧舎那仏坐像(通常非公開)が祀られている。寺院の東にある「大仏殿跡緑地公園」にも行ってみよう。発掘調査によって大仏殿の基壇に相当していたことがわかり、大仏殿跡の台座などが見つかっている。さらに周辺を歩くと大仏前交番、大仏変電所、京都大仏前郵便局など「大仏」の名が今も残る。寺院の規模は小さくなったとはいえ、いつの時代も京の人びとに「大仏っさぁん」と親しまれている寺院であることに変わりない。

大仏殿の遺構が今も地中に眠っている} 大仏殿の遺構が今も地中に眠っている

スポット詳細

住所
京都府京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2 map map 地図
時間
9:00-16:00
休業日
不定休
料金
無料
駐車場
なし
クレジットカード
不可
電子マネー/スマートフォン決済
不可
Wi-Fi
なし
コンセント口
なし
喫煙
不可

情報提供: ナビタイムジャパン

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最寄り

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