飯盛山
霊山として崇められた信仰の山が歴史に残る物語の舞台に
訪れる人の線香が絶えない山
飯盛山は、会津若松市街の東2kmにある高さ314mの小高い山。諸説あるが、茶碗に飯を盛ったような形からその名がついた。古くは弁天山と称され13世紀頃から会津鎮護だった厳島神社が鎮座している。また会津盆地を見守る信仰の深い山の山頂には前方後円墳がある。現在は観光地に整備され、登り口に食事処や土産店が並び、見上げるような100段以上の階段は歩かずともスロープコンベアで登ることができる。山の中腹には、戊辰戦争で自刃した白虎隊19人の墓や戦死した31人の墓、イタリアとドイツから贈られた記念碑、会津さざえ堂、宇賀神堂、厳島神社など多くの史跡や名所が残る。ちなみに参道は白虎隊伝承史学館を曲がった細い坂道で、厳島神社に続く鳥居が見える。
会津の悲劇でもあり幕末の英雄でもある
当初、白虎隊は実際の戦闘に出陣する予定はなく、おもに城中の警護にあたっていたが、戊辰戦争の戦場が会津に移ると藩主松平容保は白虎隊に出陣命令を下した。その後猪苗代湖湖畔の戸ノ口原で銃撃戦となり20名が戦死。抜け道である戸ノ口堰(とのくちぜき)の洞門をくぐり飯盛山に撤退するが、城下町の火災の煙を鶴ヶ城の落城と錯覚し「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と19名が自決した話はあまりに有名。のちに白虎隊の精神と悲劇の物語は1人だけ生き残った飯沼貞吉により後世に伝えられた。白虎隊自刃の地は飯盛山南側の丘の上にあり会津若松市を一望できる。慰霊碑が白虎隊も見た鶴ヶ城に向かって建てられている。
賊軍という汚名返上までの長い道のり
会津藩が戊辰戦争に敗れたのは1868年(明治元)。新政府軍の監視下に置かれた会津藩は、戦いで倒れた戦死者を葬ることさえ許されなかった。白虎隊を含む遺体は数か月のもの間放置され野ざらしのままであった。憐れに思った住民が密かに妙国寺に運び出し埋葬したが西軍にとがめられた。その惨状を見かねた旧会津藩士は、新政府軍に埋葬許可の申請を行い、翌年の春に七日町の阿弥陀寺と日新町の長命寺にそれぞれ埋葬が許可された。その後、1890年(明治23)に白虎隊19士の墓が建てられ、1928年(昭和3)に、飯盛山全体が整備されて現在の形になった。その年、秩父宮雍仁親王と松平勢津子様のご成婚という誉れがあり、長い間賊軍といわれた会津藩が汚名を返上したと喜ばれた。
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情報提供: ナビタイムジャパン