内田百閒の墓も!後楽園の借景となった岡山市の古刹・安住院


2015.04.18

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岡山市の街なかから東の方角を眺めると、操山と呼ばれる小高い丘陵の中腹に仏塔らしきものが見えるはず。安住院の多宝塔です。安住院は日本三名園の一つに数えられる後楽園の借景として、歴代の岡山藩主にも愛されてきた寺院。現在もなお操山の中腹から岡山の街を見守り続けています。境内には岡山を代表する作家・内田百閒のお墓もあり、見所は満載。今回は安住院の歴史や文化財の数々をご紹介しましょう。
楼門としては岡山県最古!「瓶井の赤門」とも呼ばれる仁王門
安住院の正式名称は「瓶井山禅光寺安住院」(みかいさんぜんこうじあんじゅういん)。山号の由来は境内の山腹に「瓶井」(みかい)と呼ばれる泉が湧いていることにちなみます。創建は奈良時代中期の天平勝宝年間(749~756年)。報恩大師によって創建された禅光寺の本坊として、安住院は出発しました。その後、荒廃と復興を繰り返しますが、文明10年(1478)の火災により、写真の仁王門をのぞくすべての堂塔が焼失。現在の堂塔は江戸時代に入って再建されたものです。その後、岡山藩主によって後楽園が造られると、操山の中腹に建つ安住院は後楽園の借景として歴代藩主に愛されることとなりました。
安住院でもっとも古い歴史を持つ仁王門(岡山県指定の重要文化財)の別名は「瓶井の赤門」。「赤門」と呼ばれる理由は、ご覧のような総朱塗り仕立てになっていることにちなみます。康正2年(1456)の建立で、楼門としては県内最古の木造建造物です。
県内では珍しい!龍宮門形式の鐘楼門
写真は「白門」の別名を持つ鐘楼門。その名のとおり、鐘楼としての機能をあわせもつ山門です。現在の鐘楼門は、天保6年(1835)、本性僧正によって発願・再建されたもので、その規模は正面6メートル、側面4メートル。漆喰(現在はコンクリート)で設けられたアーチ式の通路は、その形状から一般に龍宮門と呼ばれています。県内では珍しい形式の建物です。
中世密教本堂の建築様式を伝える本堂
本堂は岡山市指定の重要文化財。慶長6年(1601)、岡山城主・小早川秀秋によって築造されました。もとは現在の地から200メートルほど離れたところに建っていましたが、寛政12年(1800)、現在の地に移築されました。格子によって内陣と外陣とを明確に区分する中世密教本堂の形式を伝えており、江戸時代初期の建物とはいえ、奈良時代から続く安住院の豊かな歴史を思い起こさせます。内陣には本尊の千手観音菩薩立像が秘仏としてまつられているほか、伝・聖観音菩薩立像(岡山県指定重要文化財)や毘沙門天立像(岡山市指定重要文化財)も安置されています。
中世密教本堂の建築様式を伝える本堂
岡山県の重要文化財に指定されている多宝塔は、本堂からさらに山道を数百メートル登ったところに位置しています。元禄年間(1688年~1704年)、岡山藩主・池田綱政の指示によって建立がはじまり、継政の時代に完成しました。総高は約20メートルと巨大で、県内では2番目の規模を誇ります。高層建築が立ち並ぶ前は街なかのどこからでも目にすることができたため、「見かえりの塔」とも呼ばれています。樹木にさえぎられている方角もありますが、眺望がひらけている箇所もあるため、多宝塔を見学する際は眺望もあわせて楽しみましょう。
よく見たら「百閒」の名も!作家・内田百閒(栄造)の墓所
墓地の一角には『百鬼園随筆』『ノラや』『阿房列車』シリーズで知られる作家・内田百閒(うちだひゃっけん)のお墓も残されています。内田栄造こと百閒は、明治22年(1889)、岡山市生まれ。故郷・岡山の地や物産をこよなく愛し、幼少期の思い出を数々の随筆に書き残しました。
没後、百閒の遺骨は安住院にある内田家の墓所に分骨されており、写真はその墓所を撮影した一枚。墓石の側面に百閒の本名である「内田栄造」の名が刻まれているのが、おわかりになるでしょう。その反対側には生没年も刻まれていますが、「栄造」の脇に小さく「百閒」と刻まれている点にも注目。百閒ファンの方は、ぜひ、ご参拝ください。
おわりに
安住院の持つ豊かな歴史や見所をご理解いただけたでしょうか。後楽園や岡山城からは歩いても30分たらずの距離にあるため、アクセスも快適。岡山を訪れたら安住院を訪れ、その歴史的な魅力をご堪能ください。 

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安住院
place
岡山県岡山市中区国富3-1-29
phone
0862722320
no image

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