箱根越えの難所は地獄だった?硫黄の精進池と救いの元箱根石仏群


2018.05.12

トラベルjp 旅行ガイド

箱根にある精進池という小さな池をご存知でしょうか。どこか鬱々とした雰囲気が垂れ込め、付近には摩崖仏や宝篋印塔が数多く残されています。
その理由は現在の風景からは想像もつかない、かつての「箱根」という特殊な場所にありました。そんな箱根の精進湖と元箱根石仏群をご紹介いたします。
鬱々とした空気の精進湖とかつての箱根
箱根には有名な芦ノ湖があります。その芦ノ湖から国道1号線を箱根湯本方面に少し登った道沿いに「精進池」という小さな池があるのをご存知でしょうか。華やかな印象の芦ノ湖と違い、ここはどこか薄暗く鬱々とした印象を受けます。
それもそのはず、かつては箱根越えの難所の入口であり、あちこちで噴気が上がり殺伐とした場所でした。今でこそ緑が溢れていますが、ここにはその「殺伐とした空気」が取り残されているように感じられます。
池の畔には石仏へと続く遊歩道や、石仏を紹介した無料の「石仏群と歴史館」があります。
精進池は硫黄泉が流れ込み、その水は茶色のような黄味がかかった色。そのため魚が生息できないことから「精進池」との名が付いたと言われています。
かつてはあちこちに溶岩が露出し、噴気や火山ガスにより緑は少なかったことでしょう。硫黄の腐った卵のような臭いもしていたかも知れません。旅の途中に命を落とすこともあった昔の人にしてみれば、死を意識せずにはいられない場所であったことでしょう。
精進池には下記のような伝説があります。
昔、芦之湯に「庄治」という若者がいました。夜には池のほとりで尺八を吹いていましたが、いつしか若い娘が隣で聞くようになります。二人は恋仲になりました。…そんなある日娘が告げたのです。
「私はこの池に住む大蛇で、明日天に昇ります。その時には村も山も押し流されるので、あなたは逃げてください。」
娘は口留めしましたが、庄治は村人にそのことを知らせます。すると村人は大蛇が嫌うという包丁や鍋などの鉄気のものをありったけ池に投げ込みました。池は赤く染まり、突然の暴風雨が巻き起こります。やがて嵐が治まると池にはのたうちまわり絶命した大蛇の姿が…。庄治も全身に鱗が刺さり、絞め殺された姿で見つかります。
その後、池は鉄で濁り魚も住まず、名も「庄治が池」と呼ばれ「精進池」となりました。
旅人を救う摩崖仏「六道地蔵」
鎌倉時代、旅の難所の入口であったこの辺りには多くの石仏が造られました。その中で一番大きな石仏がこの「六道地蔵」。お堂があるためわかりにくいのですが、岩肌に彫られた摩崖仏です。精進池からは国道1号線を挟んだ向かいにあり、遊歩道から地下道をくぐって行くことが可能。
地蔵信仰では、地獄の入口で地獄に落ちた人々を救うと信じられているお地蔵様。かつて旅人は地獄の入口とも思えたこの場所で、旅の無事を祈願したのでしょう。
1300年に完成したこの六道地蔵の高さは3.15mとかなり大きく、奥行きもあり一見摩崖仏と感じさせないほどのお姿。六道とは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道のこと。お地蔵さまはそのすべてで、人々を救ってくれると言われています。
せっかくなので昔の旅人にならい、旅の安全を祈願してはいかがでしょうか。少し離れた位置に立つと、お地蔵さまと目を合わせることができます。
精進湖ほとりに佇む応長地蔵と宝篋印塔
精進池の遊歩道脇にあるこの応長地蔵は1311年(応長元年)に60名ほどの信者により造られました。岩の高さは50~60cmほどでしょうか、全部で3体のお地蔵さまが彫られています。
戦前までは、箱根宮城野の人々が盆の送り火をこのお地蔵様の前で炊いていました。小さなお地蔵様ですが、信仰の篤さをうかがうことができます。
応長地蔵の向かい、精進池に近いところに1350年に建てられた宝篋印塔があります。残念ながら壊れて半分ほどしか残っていません。俗称は「八百比丘尼の墓」。八百比丘尼とは人魚の肉を食べ、800歳まで生きたと伝わる尼僧のこと。その伝説の多くは福井県にありますが、諸国を行脚したことから全国に残されています。
なぜこの宝篋印塔が「八百比丘尼の墓」と呼ばれるようになったのかはわかっていません。
八百比丘尼の墓から遊歩道を進むと、開けた場所に宝篋印塔が現れます。宝篋印塔とは「宝筐院陀羅尼」という経文・呪文を収めたもので、本来の目的は現世の苦しみや罪科を減らすためのもの。それが後世になり、墓や供養塔の意味合いが込めらるようになりました。
1296年に建立されたこの宝篋印塔も人々の苦しみを減らす目的で造られ、のちに「多田満仲の墓」と呼ばれるようになったようです。多田満仲は源満仲とも言い、平安時代中期に活躍した人物で源頼朝のご先祖様。こちらもなぜ「多田満仲の墓」と呼ばれるようになったのかは不明。
です
「八百比丘尼の墓」「多田満仲の墓」とも箱根火山の溶岩から造られています。
摩崖仏25菩薩と鎌倉時代の箱根越えの道「湯坂路」
さらに遊歩道を奥へと進むと、たくさんの摩崖仏が見えてきます。これが25菩薩西側。1293年から年月をかけて彫られました。国道1号線を挟み精進池側に23体、反対側に3体が確認できます。そのほとんどが地蔵菩薩。これだけ多くの地蔵菩薩が精進湖付近に彫られる、ということは当時の旅人はこの場所に相当な恐怖を感じていたのでしょう。きっと現代の私たちには想像もできないような、火山である箱根山の姿があったのだと思われます。
25菩薩西側から地下道で国道1号線をくぐり反対側へ出ると、風情のある石畳が現れます。この辺りの遊歩道はかつての湯坂路。湯坂路は鎌倉時代に源頼朝が二所詣(箱根神社・伊豆山神社)を始めたことにより整備されました。(東海道が整備されたのは江戸時代)
道の両側には箱根火山から噴出した溶岩があり、この道を辿るかつての旅人の心許なさはいかばかりかと思いやられます。
箱根火山と摩崖仏そして地蔵信仰
石畳を抜けると25菩薩の残り3体が確認できる岩があります。(25菩薩東側)この摩崖仏でよくわかりますが、精進湖付近に摩崖仏が彫られている岩はすべて箱根火山の溶岩。火山は噴火すれば溶岩や火山ガスを噴出し、治まったとしても周囲の風景は殺伐とした地獄のようになります。そんなことから箱根の火山に対する恐れがあり、溶岩に彫られたのかも知れません。
この3体の摩崖仏があるのは国道1号線のすぐ脇で、二子山の山肌の一部。国道1号線が25菩薩を分断している形になります。国道1号線が開通したのは25菩薩が保存事業で整備されるよりも前のこと。26体の摩崖仏が現存していますが、かつてはもっと多くの摩崖仏が彫られていたのかも知れません。
1295年にこちらも地蔵信仰により造られた五輪塔です。通称は「曽我兄弟・虎御前の墓」。仇討ちで有名な曽我兄弟と、兄十郎の恋人・虎御前です。曽我兄弟が箱根にゆかりのあることから、そう呼ばれるようになったのでしょうか。その石材はやはり箱根の溶岩である安山岩です。
地蔵信仰により、かつて旅人には地獄のように映ったこの場所に多くの地蔵菩薩や宝篋印塔、五輪塔が造られます。しかし東海道の整備により湯坂路は廃れ、信仰の衰退によって塔の意味も変わってしまいました。しかし、この場所で摩崖仏や塔の造られた意味を考えたとき、鎌倉時代の箱根の様子を脳裏に描くことができるのではないでしょうか。 

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芦ノ湖遊覧船箱根園港
place
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根138
phone
0460836265
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石仏群と歴史館
place
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根110-228
phone
0460857601
opening-hour
3月-11月 9:00-17:00
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