名古屋市「七寺」太平洋戦争を耐え抜いた満身創痍の大日如来坐像


2017.04.15

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数多くのお寺が集まる愛知県名古屋市大須地区。奈良時代の創建という古刹の「長福寺」は、七堂大伽藍を有していたこともあり「七寺」と呼ばれ親しまれていました。しかし、太平洋戦争の戦火に見舞われ経蔵を残して伽藍を焼失、その後再建されたのは本堂のみでした。そんな境内に痛々しい露仏の大日如来が坐しています。太平洋戦争の爪痕を残しながらも参拝者を優しく迎え入れる大日如来に不屈の精神を学びます。
幾多の災難をくぐり抜け、徳川藩の祈願所となった「七寺」
「七寺(ななつでら)」は正式には稲園山正覚院長福寺といい、奈良時代(735年)尾張の中島郡萱津という場所に行基菩薩を開山として建立されたという真言宗智山派の寺院です。
この「七寺」という呼び名は奈良時代の終わり頃、紀是広(きのこれひろ)が7歳で亡くなった愛児の追善のために七堂伽藍(しちどうがらん)を築いたことによります。当時は多くの堂宇が立ち並ぶ伽藍を持つ寺院は皇族や貴族のいる奈良に集中していたため、この尾張では珍しいこと。よほどの想いで建立したのでしょうね。
その後も水難や兵火により荒廃しますが、平安時代末期の1167年に尾張権守大中臣朝臣安長が稲沢市に寺域を移転し七堂伽藍を再建し、一切経を書写し、丈六の阿弥陀如来と観音・勢至菩薩像を奉納しました。
それからも焼失や移転を繰り返し、1611年に徳川家康の命によって現在地に落ち着いたのです。
江戸時代中期には徳川藩主の祈願所となり、再度七堂伽藍が整い、大須観音や西別院とともに美しい景観美を見せていました。
しかし、昭和20年3月19日、太平洋戦争の戦火に見舞われ、その美しい七堂伽藍は灰燼に帰してしまいます。
現在の本堂は旧境内の西側に東向きに建っていますが、東に隣接する駐車場に灯篭が南向きに残されています。以前は南に大きな門があり、その内側に置かれていたこの4mほどの高さの灯篭の大きさから、かつての大寺を偲ぶことができます。
太平洋戦争の爪痕を残す丈六サイズの大日如来
本堂の前に鎮座しているのは露仏、像高2.7mの大日如来です。大日如来は真言宗では大事にされている仏さまです。正面から拝むと両手首、肩、お腹に無数に銅板で継がれたような形跡が見えます。
この青銅製の仏像は先述の七堂伽藍を焼き尽くした太平洋戦争で例外なく被害に遭いました。一部が溶けバラバラに崩れ落ちましたが、継ぎ合わせれば辛うじて元のお姿になったので欠損した部分を銅板で復元し、現在のようなお姿になったのです。
五角形の冠の各面に鋳造された五仏は五智如来を表しています。体の割にお顔は小柄(小顔)で金色の白毫が光っています。露仏のため雨水による筋が全体的に見えますが、中でも目の下の頬の筋が涙を流しているように見えるのは戦争の愚かさを悲しんでいるからか、と言われています。
戦火にさらされた時、熱によって曲がってしまったのでしょう、結跏趺坐(あぐらのような足)の中央や台石との間には隙間も見えます。
後ろ姿は満身創痍
後ろ姿はさらに銅板補修の箇所が増え、満身創痍のお姿に見えます。
特に首から肩のあたりの損傷は激しく、バラバラになっていたパーツをパズルのように組み合わせて元のお姿に戻したことがうかがい知れます。
比較的損傷が少なかった腰から足の部分には造立に関わった方々の名前がびっしりと並んでいます。
背中の部分の補修は長年の風雨により変形しながらも必死にその姿をとどめようとしています。
太平洋戦争の戦禍を経験した大日如来は、全身でその歴史を物語っているのです。 

長福寺
place
愛知県北名古屋市法成寺八竜
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