饅頭が結んだ奇縁!?奈良、漢國神社で饅頭の神様と徳川家康の不思議な因縁にせまる!


2016.12.23

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近鉄奈良駅から徒歩5分の所に、漢國神社はあります。
漢國神社は、徳川家康が参拝し、鎧を奉納したことでも知られています。そして、境内の一角には、饅頭の始祖として知られる林浄因を祀った、林神社があります。
徳川家康と饅頭、そして、林浄因。一見なんのつながりもないようにみえますが、家康の生きた時代背景とお菓子との関わりをひも解くと面白いことがみえてきました。今回は、家康と林家、饅頭の関係にせまります。
饅頭の始祖、林浄因
甘くて美味しいお饅頭。
餡の入ったお饅頭は、1349年に中国留学から帰国した禅僧、竜山徳見を慕い、共に日本にやってきた林浄因が、中国の肉をつめた饅頭からヒントを得て創作したといわれています。日本には肉食禁忌の風習があったため、禅僧にも食べられる点心として、肉の代わりに小豆の餡をいれた饅頭を考案しました。
この饅頭は、爆発的に売れ、 評判をよび、後村上天皇に献上するまでになり、天皇は妻にするようにと官女を贈りました。林浄因は塩瀬姓を名のり、奈良に住み、饅頭製造を家業としました。
時代はくだり、その子孫は、京都へ移り住み饅頭屋を営んだといいます。
林浄因が住んでいたあたりに、漢國神社があり、その境内の一角の林神社に林浄因はお饅頭の神様として、祀られています。
彼の子孫は、代々660年あまりのれんを守り、現在の御菓子の老舗、塩瀬につながることになります。
徳川家康とお饅頭
塩瀬のお饅頭は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉といったそうそうたる面々に愛され、食されました。徳川家康も塩瀬のお饅頭を愛した一人ですが、彼は、お饅頭で戦勝や厄除招福を祈願しました。家康が生きていた時代には、嘉祥の儀式というお菓子の儀式がありました。
平安時代の中頃、疫病が蔓延したことから年号を嘉祥と改め、元年の6月16日に、神前に16個の菓子や餅を供え、厄除と健康招福を願ったことが起源とされます。
供えた菓子や餅は、厄祓いのために食べる風習がありました。
嘉祥は嘉定ともかき、嘉定は「かつう」と読み、「勝つ」通じる吉祥事とされます。室町時代の嘉祥の儀式は、旧暦の6月16日に嘉定通宝という銭16枚で食べ物を買い贈ると縁起がよいとされました。
徳川家康にはこんなエピソードが伝わっています。
1572年に三方ヶ原の戦で武田信玄に大負けし、浜松城に逃げ帰る途中、あまりの空腹に小豆餅をほおばりました。そこへ、武田軍が追ってきたため、銭を払わず逃げた家康を、茶屋の老婆は食い逃げと思い追いかけた、という話が残っていて、そのあたりは「小豆餅」といわれています。
大敗した家康ですが、嘉定通宝を拾い、家臣が献上した菓子を食べてから開運したと伝わります。
また、塩瀬との関係は1575年の長篠の戦に七代目林宗二が、「本饅頭」を献上した頃からはじまります。
献上された本饅頭を家康は兜に盛り、軍神へ備え戦勝を祈願しました。そんな逸話から、この饅頭は「兜饅頭」とも呼ばれています。
これぞ饅頭のご霊験!?大好きな饅頭の神様が祀られる漢國神社で命拾い!
既に70歳をすぎていた老齢の家康に、またしても命を落とす瀬戸際まで追いつめられる出来事がおこります。
1615年の大阪夏の陣で、家康は真田幸村に大負けし、命からがら逃げ出します。漢國神社の前で桶屋が桶をなおしていると、外から物々しい騒ぎが聞こえ、戸をたたく者がありました。戸を開くとそこには、真っ青な顔をした鎧武者が大将らしき、武将をおぶり、立っていました。
「その桶に、殿をかくしてくれぬか。」
その武将こそ、徳川家康でした。桶に隠れた家康は、漢國神社まで追ってきた真田幸村とその配下に見つかる事なく、命拾いすることができたという言い伝えがあります。
お礼参りと江戸幕府の治世
命拾いした家康は、かくまってくれた桶屋に多くの謝礼を与え、自らの鎧を漢國神社に奉納し、その霊験に感謝の意を伝えるお礼参りをしたといいます。
徳川家康は、最後には天下をおさめ、江戸幕府を開きます。江戸幕府を開いた際、塩瀬も共に江戸へ上がり、御用達として饅頭を献上しました。
また、嘉祥の儀式は江戸幕府の年中行事になりました。家康と菓子との関わりから、毎年6月16日には幕府の行事として、重要視されました。その様子は、江戸城の大広間五百畳に二万個の饅頭や羊羹を並べ、将軍から大名や旗本へ菓子が一つづ配られる盛大なもので、「嘉祥頂戴」といいました。 

漢国神社
rating

4.0

13件の口コミ
place
奈良県奈良市漢国町6
phone
0742220612
opening-hour
6:00-18:00

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